最近の皆さんの投稿を参考に、性の規範に関して考えていることです。
まず、北岡さんと吉岡さんの「猥談」についての論議から、
>古来の日本の性を相手だけではなく「周り」と楽しむ例として、卑猥な会話を挙げてらっしゃいますますが、これが規範の役目をしていたとは思えないのですが・・・。幾らおおらかな性が尊重されたとしてもこのような会話はタブー視されてしかるべきではないでしょうか?<
(14612『性の開放が果たしてキーワードなのか?』匿名希望)
吉岡さんの例に出された近世の村落共同体において、おおらかな猥談の成立していた背景を考えるに、互いに子どもの頃からなんでも知っているし、隠してもしようがないという関係状況にあったことを想起する必要があります。
つまりそこでは、一切において秘匿、隠匿が不要な集団であったがゆえに、日常的なオープンな会話(共認圧力)が規範として効力を持っていたということではないでしょうか。そこにおいては、隠しておくことこそが、タブー視の対象ではなかったかと想像されます。
こうした「秘匿の必要のないオープンな日常関係」が、性そのものを大切にする風土、共通認識、規範を形成する土台として必要なのではないか、と考えています。
その意味において、以下の意見は的を得ているように思います。
>そんな性を語り合える仲間をつくる、性さえさらけ出せる関係を作るというのは、性の相手に心を開くのと、さして変わらない原理なのかも知れません。<
(14639『話して共有する』吉岡摩哉さん)
「秘匿の必要のないオープンな日常関係」があってこそ、おおらかな性が成り立ちうるのであって、その土台を欠いた性の自由、開放は無秩序な性に陥るしかないのではないかと思います。
また、逆に言えば、性の規範に反すること、性的自我からくる規範破りは、必然的に秘匿、隠匿を必要とする構造にあるとするならば、性規範の基本はまずオープンであること(←これと性の「自由」とは別物)に求められるのではないでしょうか。
(※この性の秘匿、隠匿の問題は、現在、新しい社会統合NWで議論されている問題と多少なりとも関連(14707『匿名の性犯罪 』石野潤さんなど)するかもしれません。) |
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