古代社会
136674 交易の起源≒略奪・陥れ
 
長谷川文 ( 39 ) 06/11/06 PM09 【印刷用へ
>初期王朝時代のシュメールは、ウバイト後期(-前3900頃)からウルク期(-前3400頃)にかけて文明が発達した。ペルシア湾に近接するエリドゥ(現アブ・シャーレイン)神殿遺跡から帆船の模型が出土し、すでに人々がペルシア湾を航海していた。また、ウルク中期(前3400-3300頃)には、上流部のみならず北イラク、シリア、イランにまで進出し、植民地と交易拠点を建設した。
輸入品は、山岳地帯のフリントや玄武岩、木材、金・銀・銅・錫の鉱石、その他宝飾細工用の紅玉髄、ラピスラズリ、トルコ石、瑪瑙、水晶、硬玉、緑柱石、閃緑岩、滑石、蛇紋岩、象牙、海産の貝などであり、紅海、アラビア、レヴアント、アナトリア、イラン高原、そしてザグロス山地など、極めて広くかつ遠方の諸地域との交易が盛んであった。
ここで注目すべきは、当時の先進国が交易にあたり、穀物や土器を支払い手段としていることである。

シュメールの国家は、神殿の組織や経済力が圧倒的であったことから、商業的神政の国家ともされてきた。神殿は、喜捨や租税によって大量の穀物を集積し、土地を開拓や購入して農業を営み、また工房を開設して工芸品を生産した。神官とともに、豪族も育っていった。この神殿経済を取り仕切る人々のなかから、「王」が生まれたとされる。こうした階級社会の形成とともに、対外交易が行われるようになった。この対外交易は、次第に奢侈品の取得が目的となっていった。主たる輸出入の対応は金属と敷物であり、取引主体の神殿は金属を輸入独占し、その対価たる穀物は人民からの納入(奉納、年貢、買入など)によったであろう。かくして国内的には神殿はやがて人民から穀物を買い、人民に金属を売る、という形をとり、この両者は貨幣的性格を帯びるに至る(後には穀物と銀の複本位制を採る)」。
  この神殿や王の交易は、それら宮廷の「外交的・取引的才能に恵まれた者が経済外交官」となって行われた。この者はやがて、みずから[は]神殿のために取引をするほかに、自分の配下に自分の支配する貨幣(多くの場合、銀)を貸与して、国内で交換用の物資を買いつけ、これを外地に売って銀その他を獲得させる、という単なる請負への委譲、または私利的行為を行なうに至った如くである。かくして下請商人が発生し、この者は借用の貨幣に対して利潤の一部、すなわち利子(例えば借用額の3分の1を支払うようになった」。

サルゴン一世(在位前2335-2279頃)はアッカド王朝を築いた王として有名であるが、ペルシア湾、さらにメソポタミア周辺地域にもたびたび遠征し、ユーフラテス河中流域の都市マリ、北シリアのエブラ、レバノンの「杉の森」、タウルス山脈の「銀の山」などを手にいれた。さらに、現在のイランのエラムにも遠征している。
アッカド王朝時代、杉材はレバノン各地、竪材はヴァン湖附近やメルッハ、石材は西方諸国やメルッハ、マガンから、銅はエラムやマガン、キプロスから、銀はアナトリア・キリキアのタウルスから、金はヌビアからメルッハ経由で、馬は東方の山地から、駱駝はアラビアから、それぞれ輸入された。また、メソポタミアの輸出品は穀物、羊毛、胡麻油のほか、塩と瀝青であった。しかし、輸入品は平和な交易ばかりでなく、征服、略奪、徴税によってえていた。

アッカド王朝の次に登場するのが、ウル第三王朝である。これら王朝は、いずれも300年ももたなかったものの、国内外の交易地(主として中継地あるいは集散地)を陥れ、その上で交易の安全を図り、富を蓄積していったとされている。ウル第三王朝後、ラルサ王朝が登場する。この交代に関わって私的独立商人の発生はすでにウル第三王朝期にみられたが、ウル第三王朝の崩壊によって政府商業(神殿および宮廷の貿易)が瓦解し、その機能を今や初期王朝から芽生えた私的商業(これは神殿経済や宮廷経済に圧倒されて逼塞を続けてきた)が荷なうに至る。
リンク「海上交易の世界と歴史」より要約<

>古代中央アジアで産出したラピス・ラズリがエジプトの神像に使われていた事は、当時すでにオリエント世界に広範な交易が存在した事を示しています。エジプトではすでに紀元前4000年紀後半(3,500〜3,000 B.C.頃)には彼の地では産しないラピスラズリを使った宝飾品が出現していますが、少なくとも紀元前三千年紀には、東はインダスの河谷地域からメソポタミアを中継し、西はエジプトに至る、いわゆるラピス・ラズリ=ロードと呼ばれる交易路が存在したと考えられています。
紀元前三千年紀頃から南イランにエラム王国が興り、このアフガニスタン、東イランの鉱石原料や加工品のメソポタミアへと至る交易を支配しました。
エラムはメソポタミア.シュメールと密接な影響関係があり、またイラン高原、更に中央アジアに至る広範な地域がその文化圏の後背地であったと考えることが出来ます。
リンク リンク  「Miho Musiam」より<

>エラム人 
 ペルシア湾の北部にあるエラム地方に住んでいた民族。独自の言語と文化をもち、エラム王国(首都・スーサ)を形成して絶えずメソポタミアへの進出をもくろんでいた。紀元前2030年にウル第三王朝を倒して支配権を手にしたが、故郷であるエラムの地を離れることはできなかった。その後も何度かの征服戦争を繰り返し、バビロンからハンムラビ王の法典を彫り込んだ記念碑を持ち去るなどしたが、勢力は徐々に衰えていき、紀元前639年、アッシリア王アッシュール・バニパルによって滅ぼされた。
 銅や銀、スズなどを産出する恵まれた土地を拠点としたエラム人は、商業活動にも熱心で、エラム語はティグリス川以東のペルシア湾北岸にかけて広く分布した。
リンク「南風博物館」より<

時代が下るにつれて、交易の主体は 神殿→国家→商人 と変化していますが、「輸入品は平和な交易ばかりでなく、征服、略奪、徴税によってえていた。」とか「国内外の交易地を陥れ」というところから、交易のはじまりって国家による他の地域からの略奪(富の集中)から始まってるんだということがよくわかります!




 
 
 
 この記事に対するトラックバックURL  http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_136674

 この記事に対する返信とトラックバック
137385 政府商業⇒私的商業へ(1) apor 06/11/13 PM11
136808 交易(商)の芽生えを探る。 原田昭雄 06/11/08 AM11
136695 交易と呼ばれている当時の交換経済はやくざと同じではないか? 田野健 06/11/07 AM01

  [戻る]  


◆実現論本文を公開しています。
 実現論 : 序  文
 第一部 : 前  史
 第二部 : 私権時代
 第三部 : 市場時代
 第四部 : 場の転換
 参考文献

 必読記事一覧
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
大転換期の予感と事実の追求
実現論の形成過程
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(1)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(2)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(3)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(4)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(1)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(2)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(3)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(1)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(2)
1.これから生き残る企業に求められる能力は?
2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
3.市場の縮小と根源回帰の大潮流
4.共認回帰による活力の再生→共認収束の大潮流
5.自我と遊びを終息させた’02年の収束不全
6.同類探索の引力が、期応収束を課題収束に上昇させた
7.情報中毒による追求力の異常な低下とその突破口
8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機
9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった
10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない
11.学校教育とマスコミによる徹底した観念支配と、その突破口(否定の論理から実現の論理への転換)
12.理論収束の実現基盤と突破口(必要なのは、実現構造を読み解く史的実現論)
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機
新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者
現実に社会を動かしてきた中核勢力
私権時代から共認時代への大転換
市民運動という騙し(社会運動が社会を変えられなかった理由)
民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である
統合階級の暴走で失われた40年
大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち
新理論の構築をどう進めてゆくか

『るいネット』は、47年の実績を持つ起業家集団・類グループが管理・運営しています。るいネットワーク事務局(Tel:0120-408-333, E-mail:member@rui.ne.jp