突如として姿を消した長江文明であるが、原因はそれだけではなさそうだ。
>これに対し、温潤な長江文明地帯でも4200年前の気候悪化は、長江文明を衰亡に導いた。だが、長江文明を衰亡させた原因はそれだけではなかった。気候悪化にともなう北方からの畑作牧畜民の侵入が、つまり民族移動が文明衰亡を決定的にしたのである。
長江文明ある大地は今日でもまだ豊かな穀倉地帯である。長江文明の崩壊をもたらしたのはメソポタミア文明を崩壊させた自然破壊ではなかった。
4200年前に湖南省城頭山遺跡が放棄されたあとも、湖北省石家河遺跡など長江文明の遺跡は継続するが、それらも4000年前には急速に衰退していく。浙江省良渚遺跡さらには四川省龍馬古城宝トン遺跡なども4000年前に放棄される。4200〜4000年前が長江文明の衰退期である。この長江文明を衰亡に導いたものはいったい何であったのか。
図27(201項参照)には鳥取県東郷池の総硫黄含有量の変遷の図に、長江文明の遺跡の面積の変遷をかさねあわせてみた。すると、興味深い事実が浮かび上がってくる。最古の開地式稲作農耕集落である湖南省彭頭山遺跡や八十ダン遺跡の面積は約5〜6万平方キロメートルである。6400年前にはじまる最古都城遺跡である城頭山遺跡の面積は10万平方キロメートルであった。さらに暦年代5300年前にはじまる鶏叫城遺跡は15万平方キロメートルである。徐々に遺跡の規模は拡大しているが、爆発的な拡大はみられない。ところが4500年前の四川省龍馬古城宝トン遺跡になると、突然遺跡の規模は60万平方キロメートルと巨大化する。さらに同じ時代の湖北省石家河遺跡や浙江省良渚遺跡の面積は100万平方キロメートルを超える巨大なものとなる。4500年前を境として、長江文明の遺跡は突然爆発的に巨大化する。4500年前にメガロポリス時代に突入したとみなされる。ところがその巨大化した都市は、4000年前に忽然と姿を消すのである。あたかも巨大化した恐竜が絶滅するかのように、長江流域のメガロポリスは4000年前に放棄される。
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背景になにがあったのか定かではないが、やはり気候悪化、民族移動、さらには治水問題が深く関わっているのは間違いなさそうである。 |
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