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人材・教育
366014 七百数十人の奉公人を抱えた三井越後屋
 
山本紀克 ( 32 大阪 会社員 ) 21/04/08 PM09 【印刷用へ
江戸時代、多くの奉公人を抱えた越後屋。若い丁稚奉公人がどのように働き、どのように統合されていたのだろうか?

●江戸本店の開業当初は、関東出身者を多く雇用。しかし奉公人数が数百人規模になった以降は「関東の者は一切採らない」とし現地採用を禁止した。
●江戸に送る奉公人は「京都出身者…略…とし、江戸行きを断った場合は採用しない」こととしている。地縁的な関係を断ち切って奉公人の不正を防ぐ意味合いもあったという。
●採用基準はなかなか厳しく、記録によれば見習い期間中、あるいは採用になった後も「暇遣ス」と解雇されるケースがよくあった。
●奉公人の年齢は、多くは13〜14歳。採用されると店内の各部署に配置され、そこでまずは雑用、使い走りなどをさせられる。
●手代の中の子供の管理責任者である子供支配役、子供判取り、子供頭などが子供全体を掌握する。そして子供はプライベートなこともいちいち彼らに届ける必要があった。
●三井越後屋に入店した子供は49人だが、そのうち役付の手代(支配人クラス)に昇進したのは6人と、全体のわずか10%強。
●しかも、ヒラの手代のままずっと昇進しないで済むというものでもなかった。子供として入店し、勤続15年経っても役の下位である上座役に就けないような奉公人は、状況次第では解雇の対象とされた。
●こうした人員淘汰が、ある意味店内の人的クオリティ維持に貢献していたともいえる。


コラム「三井を読む」リンク

「「人の三井」はいかにして人を使っていたのか?三井越後屋の奉公人」より
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四代将軍家綱の時代に開業した三井越後屋は、江戸時代も半ばになると、七百数十人の奉公人を抱えるまで成長を遂げた。企業活動の根幹として、とりわけ人事が重要であることは現代でも江戸時代でも変わりはない。奉公人の採用、昇進、給金、また生活ぶりなど享保年間当時の様子を見ていこう。


■奉公人数の推移
延宝元年(1673)に三井越後屋呉服店が江戸本町で開業したとき、奉公人の数は10人程度であったという。しかし資料によれば、それから60年後の享保18年(1733)になると、本店ほんだな一巻いちまきの奉公人数は合計683人になっている。

本店一巻とは、京本店を統轄店とする呉服部門で、江戸本店・向店・一丁目店(のちの芝口店)、大坂本店などが所属する。

三井は呉服だけでなく両替商としての事業も行っていたから、その部門に携わっていた者の数を含めると、享保10年代後半には750人近く奉公人がいたのではないかといわれる。三井高利が江戸で商売を開始してから約半世紀を経て、三井の事業は個人商店の域から現在の企業体のような大組織となるまでの成長を遂げたのであった。

では、これだけの奉公人の管理を三井の経営陣はどのように行っていたのだろうか。

■奉公人の採用
江戸本店の開業当初は、関東出身者が多く雇用されていたといわれる。しかし奉公人数が数百人規模となっていた享保年間では、江戸本店勤務者の採用について、「関東の者は一切採らない」という決定が行われている。要するに、現地採用を禁止したわけである。

また、江戸に送る奉公人は「京都出身者、または京都から3里以内に居住する者とし、江戸行きを断った場合は採用しない」こととし、京本店の奉公人は「京都から15里以内、あるいは京都の出生者は『当地勤一人も堅無用』」(元禄16年の『支配勤集』より)とされた。こうした決定には、地縁的な関係を断ち切って奉公人の不正を防ごうといった意味合いなども込められていたのだろう。

本採用に至るまでの流れは、元禄8年(1695)に制定された京本店の『家内式法帳』に記されている。手代(営業担当)は10日以内、子供(手代の補佐、いわゆる丁稚)は30日以内に請状(奉公人の身許保証書)を提出するとされている。同時にこの期間は店側が採用予定者の人柄や能力を見極める「目見」の期間でもあった。採用基準はなかなか厳しく、記録によれば見習い期間中、あるいは採用になった後も「暇遣ス」と解雇されるケースがよくあった。

■奉公人の昇進
子供として採用される奉公人の年齢は、多くは13〜14歳であった。彼らは採用されると店内の各部署に配置され、そこでまずは雑用、使い走りなどをさせられる。手代の中の子供の管理責任者である子供支配役、子供判取り、子供頭などが子供全体を掌握する。そして子供はプライベートなこともいちいち彼らに届ける必要があった。

また、身だしなみには厳しく、子供たちだけでの相談や口論は厳しく禁じられていた。こうして経験を積んでいくうちに、やがて子供も手代となって能力のある者はさらに地位を得ていくわけだが、昇進に際してはなかなか厳しい選抜が行われていたようだ。

三井では奉公人の役名がつくられていた。大元方(三井の事業と家を統轄する機関)が設置された宝永7年(1710)には本店で「目付」「役頭」「組頭」「支配人」「名代」といった役が設定され、その後、役はさらに細分化されていく。

当時の奉公人にとって、役付に昇進していくことはそう簡単ではなかった。 記録によれば、享保7〜8年(1722〜1723)に三井越後屋に入店した子供は49人だが、そのうち役付の手代(支配人クラス)に昇進したのは6人と、全体のわずか10%強でしかない。

しかも、ヒラの手代のままずっと昇進しないで済むというものでもなかった。子供として入店し、勤続15年経っても役の下位である上座役に就けないような奉公人は、状況次第では解雇の対象とされた。

こうした人員淘汰が、ある意味店内の人的クオリティ維持に貢献していたともいえるが、実際に三井越後屋に勤務していた奉公人にとっては、なかなかプレッシャーもあったのではないだろうか。

(以下略)
 
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