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日本人の起源(縄文・弥生・大和)
363539 日本人の祖
 
2U 21/01/13 AM00 【印刷用へ
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(前略)
上の説を日本古代史と重ね、やまとことばを手灯りにつらつらと考えてみた。筆者の推測も含まれているため一つの読み物として楽しんでいただければ幸いである。

氷河期、凍てつく海の水位は低かった。大陸と列島は陸続き同然か、小舟を使い島伝いに自由に行き来ができた。この頃に大陸から牧畜を経験せずに東進し日本南西部に到達したのが血液型O型の狩猟集団である。その後に日本の北側からやってきた集団はB型である。この両者こそ倭人、つまり縄文人である。これを単に捕食動物を追っての極東への旅とは考えにくい。その目的の中には当時の狩りに利用された細石器の材料(黒曜石)を求めてのことが考えられる。日本列島全域が硬度と劈開性に富んだ良質の黒曜石の産地である。また穀類以外の食料の確保のためよい漁場を求めて太平洋岸伝いにやってきたとも言える。魚肉は獣肉を主食とする民族にとっても無害であり、O型、B型双方にとって格好の栄養源であった。やがて氷河期は終わり海面が上昇すると海の道は途絶える。彼らは日本列島に腰を据えてのちに縄文時代と呼ばれる独自の時空を築く。

地中海一帯においてA型農耕民族の増え続けた人口は国家と権力者を生む。当然起こる戦乱は民族を四方に分散させた。東へと移動した集団はアジアで稲と出会い、約四千年前、ついにA型農耕民族が稲作と共に日本列島に至る。渡来人たちである。先住の縄文人との出会いと共存はいかなるものなりき。

果たして記紀にあるように稲作は天つ神からの授かり物とするほど有難い文明であったか、たしかに食料は生きるために不可欠であり、米はいろいろな意味で素晴らしい。そして実際に稲作の開始以降は人口も寿命も数字の上では増長した。結論は一言には収められないが、少なくとも縄文人にとっては大惨事だった。

先述のとおりO型とB型にとって穀類はそもそも天敵なのである。食べれば確かに腹は膨れるが滋養が得られずに活力を失い、そして病に陥る。各自が貴重な働き手である上に全体意識が重んじられた当時の社会では一人の病は集団全体に降りかかる災厄であり個人の問題では済まされなかった。
そこへ「旨いから食え」と言われ、「耕作しろ」と迫られ、挙句の果てに「天つ神を祀れ」と強いられた日には武器を取るのみ、しかし大規模な農業を運営するまでの組織力があり、ましてや鉄製農具と共に鉄製武器をも手にする渡来人たちに適うわけもない縄文人には彼らに従うか迫害されるかの道しかなかった。それが弥生時代である。
近畿・中部地方を中心に渡来人は農耕の地盤を築く。その一帯に先住していた縄文人にも耕作を伝え受け入れさせる。しかしそれにはそれなりの時間が必要であった。愛知県の朝日遺跡は農耕を核とした巨大な弥生遺跡として知られており、発見された人骨には結核や貧血などの痕跡が見られると言う。急激な人口過密化による栄養不足がその原因とされているが筆者は肉食から穀類食への転換期に起こった弊害と考える。やがて縄文人にA型農耕民族の血が混ざることで穀物の消化の問題は徐々に解消した。ここでA型とB型の婚姻によりかつて無かったAB型が誕生する。
 
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