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日本を守るのに、右も左もない
348771 殿様自らがホスト役で「おもてなし」─これが江戸大名の社交活動だ!
 
穴瀬博一 ( 30 会社員 ) 19/08/24 PM05 【印刷用へ
(以下引用)――――――――――――――――――――――――――
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「江戸は町民が主役!」と言うけれど、実は江戸の面積の7割は武家地で、さらにその大半を、参勤交代で全国から集まる殿様と家臣の大名屋敷が占めていた。そんな大名屋敷と殿様の生活に迫ります。
※本稿は、安藤優一郎著「大名屋敷「謎」の生活』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
 
□紀州徳川家の名園「西園」─御三家の殿様は、幕臣をどうもてなしたか?
加賀藩の本郷上屋敷に象徴されるように、将軍御成は大名屋敷内に庭園が造成されるきっかけとなったが、将軍だけが大名屋敷を訪れたのではない。というよりも、同僚の大名が訪問することのほうがはるかに多かったが、その際に庭園は大いに活用される。
江戸藩邸の庭園を、他家の大名が訪れた記録は数多く残されている。庭園で饗応することが、江戸の大名社会では必須の社交活動と受けとめられていたからである。お殿様自ら庭園を活用しながら、「おもてなし」に励んだ。
江戸藩邸を訪れた者は、将軍や大名ばかりではない。幕臣も訪れているが、紀州徳川家の殿様が幕臣(旗本)相手に“ホスト役”を勤めた貴重な事例を以下紹介していこう。
紀州藩の上屋敷は麴町にあったが、殿様が住んでいたのは赤坂の中屋敷のほうだった。紀州藩は、麴町上屋敷と赤坂中屋敷を藩主の住居として併用していたが、文政6年(1823)の火事で麴町屋敷が焼失したことを機に、赤坂中屋敷が上屋敷としての機能を果たすようになる。殿様が常住したのだ。
赤坂屋敷には、尾張藩戸と山下屋敷の戸山荘、水戸藩小石川上屋敷の後楽園と並び称された「西園」という庭園があった。この西園も、将軍や大名を接待する場として大いに活用されている。

(省略)
 
□西園内“長生村”での心憎い趣向─今まで村人が生活していたかのよう?
赤坂屋敷内の西園の訪問記を著した人物がいる。当時、清水徳川家の御広敷御用人を勤めていた村尾正靖だ。
年次は不明だが、正靖は斉順の招待を受けて西園を訪れている。季節は春だった。
御広敷御用人とは、御殿の奥向きの御用を勤める者のことである。正靖は清水家当主時代の斉順と接触があったらしい。招待を受けたのは正靖たち10人ほどである。
お昼前に赤坂屋敷に入った正靖たちは、まず御殿に入っている。御殿でお昼(一汁三菜)を頂戴した後、未の刻(午後2時)近くに斉順の御前へ召し出された。斉順に拝謁した後、庭園内を回遊したが、その景勝に感嘆する。
正靖たちは、庭内の見所の一つ長生村に入っていった。村といっても、農民は一人もいなかった。しかし、農家に入って見ると、今まで誰かが居たかのような雰囲気があった。そこで、正靖が以下のような光景を目にする。
囲炉裏では薬缶の湯がたぎり、串に刺された川エビや小魚があぶられていた。焼き豆腐、芋、大根などが鍋で煮られたまま残されていた。その横には、包丁やまな板などが置いてあった。「農民の生活感」が滲み出ている空間だが、紀州藩の演出である。
土間の入口を見ると、大根、タケノコ、ゴボウ、ふき、ワラビなどが入った荷籠が、明日の出荷に備えて置かれていた。農家のなりわいの様子も再現されている。家の前の畑には、菜の花や春菊の花が咲き、芋も植えられていた。
長生村を出た正靖たちは、鳳鳴閣という茶亭に向かう。そこで、斉順が待っていたのだ。
正靖たち招待客は、毛氈が敷かれた板縁に着座した。この茶亭で、斉順をホストとする酒肴の席がはじまる。

□豪勢な料理と「殿様直々」のお酌─いたるところに“感動”を高める工夫
当日のメニューは以下のとおりである。
御茶の後、鯛のお吸い物が出された。本膳は、ひらめの刺身、くわい、玉子、甘露梅など。
酒も出されたが、酔いが回ってきた頃、焼き豆腐・芋・大根が煮られた鍋が届けられてきた。さきほど、長生村の農家で正靖たちが見た鍋である。皿に盛り付けられ、各自の前に出された。だから、前もって調理されていた様子を見せたのだ。
食事が一通り済むと、いよいよ、お殿様の出番となる。
最初、正靖たちにお酌をしていたのは、紀州藩士たちである。数献重ねた後、招待客のうち木村次郎太郎という者から、斉順の御前に進み出た。斉順は手づから、御お銚子を持ってお酌している。最高のおもてなしといったところだろう。
正靖の番となった。
紀州藩用人の筒井内蔵允からは、斉順のお酌なのだから当然の礼儀として一盃は吞み干すように、と声が掛かった。しかし、斉順は正靖に対して、酒があまり吞めない者に無理強いはしないと言葉を掛け、少ししか注がなかった。
実は正靖は酒に弱かったが、そのことを斉順も覚えていたのだ。斉順の心遣いに、正靖は感激する。
将の言葉一つで、感激した士卒が一命を捨てる例は古来少なくないが、まさにこれだというのだ。感涙に堪えない気持ちを込めた一句も詠んでいる。
身にあまる かたしけなさを 思ふにそ まつほろほろと 涙落ちけり
その後も、焼いた鰺、長生村の囲炉裏で串焼きにされた川エビが出された。酒が吞めない者には御飯が出された。お腹がいっぱいになると、茶菓子である。お菓子は羊羹・饅頭・紅梅餅の3品だ。江戸の高級料亭に勝るとも劣らない食事の数々であった。
最後に、さきほどの農家で見た、大根・ゴボウなどが入った荷籠が届けられ、お土産として各自頂戴した。至れり尽くせりの饗応である。その上、お殿様からもお酌してもらったわけであるから、その感動は正靖にとり言葉では言いつくせないものだった(村尾嘉陵「嘉陵紀行」『江戸叢書』一、江戸叢書刊行会、1916年)。
こうした光景が紀州藩に限らず、各江戸藩邸内の庭園で展開された。庭園の景勝を楽しんでもらうだけでなく、食事をセットとした「おもてなし」により、その感動を高める工夫が施ほどこされていたのである。
 
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