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これからの暮らしはどうなるの?
346795 人を抜きにして、サービスは成り立つのか。
 
三上公平 ( 22 青森県 会社員 ) 19/06/15 PM00 【印刷用へ
サービス提供において人を排除する流れが来ているのは確か。
今の時代、お客さんが本当に求めているのは「モノ」だけなのでしょうか。
「闘争的サービス」観点から切り込むこの記事を紹介します。

(【客を否定する「闘争的サービス」が支持されるのはなぜか】より引用)
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サービスは、それを提供する側とされる側の「闘争(struggle)」によって成り立つものだ――こういうと、みなさんは驚かれるでしょうか。もちろん、店員と客がけんかをするわけではないですよ。勝負のつく戦いではありません。

〇客はサービスに巻き込まれる存在である

本来であればフレンドリーさが求められるはずのサービスに、なぜ闘争状態が持ち込まれるのか。その理由をもう少し詳しく考えてみます。そこには2つの側面があります。

1つは、客は闘争に巻き込まれざるを得ないという消極的な面です。

例えばカフェでコーヒーをおいしいと思うとか、レストランでステーキの味に満足するという場合、自分が主体となって客体として提供されるサービスを評価しているという前提に立っています。つまり主体と客体が分離されているわけです。

しかし、この主客分離は本当に可能なのかどうか。サービスは客も一緒に参加して「共創」するものなので、主体は客体に絡み取られています。サービスの価値が問題になるとき、そこに絡み取られた客自身の価値も問題となります。先ほどの鮨屋の話でいえば、そこで提供されるサービスは慣れていない人には難解で、ともすると居心地の悪いものです。高度なサービスに追いつけていない客としての自分が問題となっています。他方、通は自分がそのサービスにふさわしい知識と経験を持った客としての自分を意識します。

となると客はサービスを受けるにあたって、自分がどういう人間かを問題にせざるを得なくなります。値段の張るワインを飲んで「おいしい」というだけでは、月並みな言葉でしか表現できない人だと思われてしまう。

つまり、客はサービスに巻き込まれる存在なんですね。サービスから距離を取って、ワインがおいしければ素直にそう言えばいいのに言えない。サービスはそういう世界であり、主体が巻き込まれるのは避けがたいことなのです。従って自分がどういう人間かを常に示さないといけない。それが闘争を生み出す消極的な側面ということです。


〇自分を認めてもらいたい欲求が闘争状態を求める

もう1つ、サービスにおける闘争には積極的な側面もあります。

ちょっと考えてみてほしいのですが、一方的に何かを与えられて人は本当に満足できるものでしょうか。たやすく攻略できるゲームや、何の苦もなく成就する恋愛に、人はどれだけ熱中するでしょうか。多少の難しさがないと、ということは最初に自分を否定されるような機会がないと、それに魅力を感じにくいのではないでしょうか。

これを説明するために、ヘーゲルという哲学者が議論した、主人と奴隷の弁証法的関係を見てみましょう。奴隷は無条件に主人を肯定するので、主人は承認欲求を満たすことができます。しかし、その承認は自分に従属している人からの承認なので、すでに意味がない。承認を得られているけれども、それは承認でないという矛盾が起きているわけです。

これをサービスに適用してみます。客はお金を払うことで店員から承認されます。しかし、それは形式的なものであって、客の人間性に対する心からの承認ではありません。客が本当に自分を認めてもらうためには、否定的な関係からスタートして、自分の人となりを証明して最終的に承認を受けるという、ある程度の緊張感が必要です。

ここに闘争という概念の積極的な意味を見出すことができます。自分を認めてもらいたい。他の客とは違うという目で見てもらいたい。その欲望が闘争としてのサービスを求めるともいえるのです。鮨屋の親方があのようにふるまうのは、合理的なことなのです。


〇イノベーションで望まれるのは人間中心設計ならぬ「人間脱中心設計」

価値共創である限りすべてのサービスは闘争になります。自動販売機や、あるいは人が対応するものであってもコンビニエンスストアのように店員と客が互いを値踏みするような緊張が伴わない場合は、それほど価値を共創するわけではないので闘争にはなりません。

つまり価値共創のないサービスは、主客が分離されている状態においてのみ実現可能なのです。そして、こうした自販機的なサービスは利便性やコストの面で優れてはいるものの、革新的な価値をもたらすことができるかといえば難しいのが実情です。

しかしながら、企業では主客が分離されているという前提に立って、ユーザーの潜在ニーズを探り、それを満たすべきだという言説が声高に言われています。価値を提供する側=企業と、享受する側=消費者が、明確に主客分離しているものと思い込んでいる。自販機的なサービスを生み出したいならそれでも問題ありませんが、革新的な価値を生み出すには矛盾があるわけです。

例えば人間中心設計という考え方があります。人々の潜在ニーズを理解して、それを実現するデザインをしようとするもので、主客を切り離した考え方です。しかし、これを1980年代に提唱した認知科学者のドナルド・ノーマンは、2000年代に入って人間中心設計から若干距離を置くようになります*。人間中心設計でユーザーを混乱させるような悪いデザインは回避できるかもしれないが、革新的なデザインは実現できないだろうと彼は考えを改めるのです。

ユーザーとデザインされたものの主客分離ができないのであれば、ユーザーの潜在ニーズを満たすかのようにデザインしようという発想自体が成立しません。人間中心設計や、これと発想を同じくする参加型デザインのような取り組みが悪いと言っているわけではないのですが、サービスを提供する側が一方的に客のニーズを満たそうとするだけでは、共創という意識を欠いた閉じたデザインになりかねないということは指摘しておきたいと思います。イノベーションにあたっては、人間中心設計ならぬ「人間脱中心設計」が望まれているのではないでしょうか。
(引用終了)

モノの時代に再び可能性は訪れるのか。
貧困から脱却した現代において、共認に勝る可能性はあるのでしょうか。
 
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