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日本人の起源(縄文・弥生・大和)
342552 原始時代に遡る東日本と西日本の文化の相違
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 19/01/17 AM00 【印刷用へ
歴史的には東北蝦夷と律令国家リンク、武家政権と公家政権等に代表される様に、日本における東西文化の明らかな違いが見られるが、その相違は原始時代に遡る。

○2万年頃〜1万5千年前の石器の相違
東北地方と中部地方日本海側には黒曜石等の硬質頁岩(けつがん)を素材とする柳の葉の形をしたナイフが見出され、これは石を縦に縦に剥ぐ技法によって作られる。
対して西日本の瀬戸内海を中心とする地域ではサヌカイトを主な素材とする横長のナイフが分布しており、これは石を横に剥ぐ方式で作成される。これらが併用されていた地域はごく小さく、文化的交流が東西で分かれていたことを暗示している。この差異はその後の細石器文化に入ってより拡がる。

○縄文時代
縄文早期は東日本では沈線文土器(へらで線を深く刻み込んだ文様)、西日本では押型文土器(木の棒に斜めの刻みを複数入れ、それを転がして作った文様)という、土器の文様に既に著しい違いが見られる。
後期〜晩期にはいると、東日本では極めて精緻かつ華麗複雑な文様を持ち、実用的機能以外の要素を有する土器が多数作られる(代表は亀岡式土器)のに対し、西日本では口縁に凸帯がめぐらされた簡素な土器や、無紋の土器が分布している。
土器に限らず縄文時代は西日本の遺跡は貧弱で、東日本は遙かに豊富で多様性がある。
例えば土偶や岩版などの呪術的遺物は圧倒的に東日本に多い。
推計によれば縄文時代中期の、北海道を除く日本列島の人口は約26万人で、その大部分は東北南部から関東、中部地方内陸部に分布しており、西日本は僅かに2万人程度(7.7%)にすぎなかった。
この相違、1万5000年前〜6000年前は、温暖化が進み、その結果東日本ではブナを中心とする落葉広葉樹林が広がった、それに対して西日本は落葉樹が少なくシイ・カシを中心とする照葉樹林が広がる。両者には植生と動物相の違いがあり、前者の方が、人口を養う生産力に富んでいる。そのため自然の豊かな東日本では、採取+狩猟漁労社会が発達し、成熟したのに対し、西日本では縄文後期・晩期になると、雑穀・イモ類を中心に焼畑農耕が既に登場している。

○弥生前期
その後約2300年前には水稲耕作が移入され、西日本では僅か数十年で伝播するが太平洋岸では名古屋、西日本では丹後半島を境にして100年以上伝播がほぼ停止する。これは南方種で感光性の高い稲が、東日本に適していなかったという側面もあるが、それ以上に稲作文化の東進を阻んだのは、停滞したラインから考えても狩猟採取を主体とする縄文文化の抵抗である事は確実である。土器に於いても東日本は形は弥生式土器の形であるが、文様は、縄文とへら先で描かれた曲線文様でにぎやかに飾られ縄文時代の伝統を色濃くとどめている。

参考「東と西の語る日本の歴史」網野善彦
 
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「縄文体質は次代の人類の可能性!」第6回〜地方再生・自然との共存 「縄文と古代文明を探求しよう!」 19/01/28 AM01

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