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日本を守るのに、右も左もない
339124 戊辰戦争と原発(1)
 
佐藤晴彦 ( 60 長野 会社員 ) 18/09/15 AM00 【印刷用へ
私たちは明治維新こそ日本の近代化の始まりとして輝かしい歴史の始まりのように教えられてきました。しかし、その時実際にはどんなことが行われてきたのか、真実を知る必要があります。

「兵頭正俊の知らなきゃ滅ぶニュースの真相」より引用します。
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明治維新に対して、わたしたちは間違った教育を受けている。
それは勝てば官軍の官軍史観であり、とりわけ長州史観である。
それを司馬遼太郎が文学的に美化した。
それを犬HKがさらに虚構化して国民を洗脳した。
それでわたしたちは遅れて封建的な江戸と、開明的で近代的な明治という二項対立で江戸と明治を認識してしまったのである。
学校教育もまたそういうものだった。

原田伊織は『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』のなかで書いていた。

「テロリストの多くは、「会津」を正しく「あいづ」と読めなかったという。
天下の親藩の名さえも読めず、それがどこにあるかも分からぬ者が多くいたのだ。
彼らはそういう知的レベルの集団であった。
つまり、正真の武家集団ではなかったのである。
そういう輩(やから)が、訳も分からず「攘夷!」を叫び、自らを正義の「志士」と自称し、「天誅」と称して殺戮の限りを尽くしたのである」

(引用終わり)

これは長州の末裔アホぼん三世が、「云々」を「でんでん」と誤読し、官僚や側近の作った答弁書の類いにすべてルビを付させる現実と酷似している。
この知的レベルで、しかも保守でも右翼ですらない集団が、現在、わけもわからず改憲に走り、戦争に向かっている。

森田健司は、「戦い(戊辰戦争 注 : 兵頭)が終わった後、城下には会津の人々の遺体が散乱していた。
しかし新政府軍は、遺体の埋葬を強く禁じた。
そのため、遺体は野犬に喰われ、烏に啄(ついば)まれ、最低限の尊厳さえ奪われた上で朽ちていった」
(『明治維新という幻想ー暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』)と書いている。
これが新政府軍が会津軍に対しておこなった戦勝者としての仕打ちだった。

このならず者を多く含んだ新政府軍の残虐行為、無差別殺人に対して、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が成立した。


それは、陸奥国(奥州 陸奥は現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)、出羽国(羽州 山形県、秋田県)、蝦夷地(北海道)、越後国(越州 越前:福井県から石川県 越中:富山県 越後:新潟県)の諸藩が、新政府軍に対して立ち上がったものである。

その戦いは品格があり、それゆえに悲しいものだった。

森田健司は同著のなかで、こうも書いていた。

「新政府軍は道徳的水準が極めて低く、会津戦争の際などは、会津の女性に恥辱の限りを尽くしたことが語り継がれているが、庄内軍は、この真逆だった。
略奪や暴行を一切許さず、幹部は兵士を厳しい軍規で律していた。
特に、非戦闘員の人命は、何より尊重するところだった。

玄蕃(酒井玄蕃 注 : 兵頭)は、この庄内軍を象徴する有徳の士だったとされる。
戦闘となると、まさに「鬼」と化すが、それが終わると、わずかな休息時間を使って、彼は詩作に勤(いそ)しんだ。
非常時であろうとも、文化的であることをやめなかったのである」

(引用終わり)

酒井玄蕃は敵の亡骸も手厚く葬り、墓標まで建てたといわれる。
敵兵の亡骸に対して、埋葬を禁じ、野犬や烏の餌食にした新政府軍と比べるとき、その品格の違いは決定的だった。
(続く)
 
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