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学者とマスコミが人類を破滅に導く
339104 プロパガンダがいかに人々を事実から遠ざけるか 〜米国による核兵器のプロパガンダ
 
深ヰ紫 18/09/14 PM01 【印刷用へ
 核兵器が持つ恐ろしさと愚かさはいまさら語るまでもないだろう。しかし、1950年代の米国では、核兵器とはミスコンを伴う観光ショーのネタであった。

優勝者には「ミス核爆発」「ミス放射能」「ミス核爆弾」という称号が冠され、衣装は核爆発を象徴するキノコ雲型。日本人が見れば、これほどおぞましい写真は無い。

翻って現在、こうしたプロパガンダが行われていないと断言できる人はいるだろうか?

マスコミが芸能ネタと大本営発表しか扱えず、学校では徹底した暗記教育で思考力が奪われていく中、プロパガンダが支配する基盤は強固になっている。われわれは1950年代の米国人を嗤えない。


以下、スプートニク日本より(リンク

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核兵器のプロパガンダ。現在なら、こんな馬鹿げたことはないと思わない人はいないだろう。現代世界にとって幸いなのは、誰もが「核ゲーム」のもたらす影響を理解していることだ。しかし、いつもこうだったわけではない。

核時代が夜明けを迎えていた頃、世界はその力と可能性に目が眩んでいた。野心あふれる大国はこぞって核ポテンシャルを増強し、徐々に国際情勢を緊張させていった。

しかし、当時の世界の大多数は、起こっていることの危険性を認識していなかった。広島と長崎の悲劇からわずか数年後、核兵器は巧みなプロパガンダによって、鑑賞の対象、観光名所、美しい記念写真など、さまざまな役割で使われるようになった。世界はまるで1945年の数万人の死に気づかなかったかのうようだった。

(中略)

○観光「ブーム」
米国の核実験の大半はネバダ実験場で行われた。そこからわずか100qの距離にあるラスベガスは爆発を見るのに最適な場所だった。ラスベガスには爆発の際の発光や大きなキノコ雲を安全な距離から見たいという観光客が押しかけた。

ゲストが「ショー」のハイライトを逃さないよう、当局は実験スケジュールと最高のビューポイントを示したガイドブックを発行した。ホテル側はキノコ雲の「絶景」を宣伝文句に客を引き寄せた。ラスベガスのバーでは「核カクテル」(シャンパン、ウォッカ、シェリー、ブランデーを混ぜたもの)を販売し、カジノやホテルは核爆発と「核バレエ」を記念してパーティーを催した。当局の一人はジャーナリストのダニエル・ラングに対して「実験は酔狂な曲目みたいなものだと人々に納得してもらう必要がある」と語った。

(中略)

○放射能の美
ベガスの「核祭り」の必須イベントがミスコンテストである。初めてミスコンが行われたのは1952年のこと。

初の優勝者はダンサーのキャンディス・キングで、彼女には「ミス核爆発」の称号と数キログラムのマッシュルームが贈られた。

類似の称号「ミス放射能」を受賞したのが歌手のマルガリート・ピアゼである。この称号は彼女のコンサートの上客だった米軍兵士たちによって贈られた。

女優のリンダ・ローソンには「ミス・キュー」(前回の核実験の名称)の称号が贈られ、彼女にもキノコ雲の形のティアラが贈られた。

1957年、最後にして最も有名なミス核爆弾となったのがダンサーのリー・メルリンである。彼女の衣装は水着に何の変哲もない綿を貼り付けたものだった。このダンサーの写真はアメリカの歴史の一部となっている。これが最後のミス核コンクールとなり、その5年後にはネバダでの核実験も終了した。

このお祭り気分の時期に、核兵器が全世界にとってどれほどの問題となり、脅威となるのかを認識している者が少なかったのは明らかだ。広島と長崎の原爆投下は多くの人にまだ悲劇だとは認識されていなかった。キューバ危機が世界に対して、世界全体が広島と長崎と同じように一瞬にして核実験場と化してしまい得うるとを示すのも、まだ先のことだった。

 
 
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