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日本人の起源(縄文・弥生・大和)
339097 律令国家と対峙した、日本の中のもう一つのクニ(蝦夷・東北)
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 18/09/14 AM00 【印刷用へ
日本の歴史を見る上で、東北・北海道(蝦夷)は重要な位置を占めると思う。
その理由は3点ほどある。日本の武士に重要な影響を与えた点、律令国家に祀ろわず、度々独立を図ろうとした点、東アジア交易の中の北方交易の一大拠点だった点等々である。

○もう一つの国「日高見国」
3世紀頃、東北には既に一定の勢力が存在したといわれる。そして5世紀頃には彼等は大和勢力等からは蝦夷(えみし)と呼ばれ、自らを「日高見国」と呼ぶ勢力が存在した。但し一人の王が統治していた訳ではなく、幾人かの首長が連合する、部族連合であった。拠点は現在の青森辺りに存在したようである。日本書紀によれば、倭国の日本武尊が、この「日高見国」に進軍し、貢ぎ物を得たという記録があるが、この記録は古事記にはなく、果たして大和朝廷によるものであるかどうかは定かではない。

倭国が本格的に日高見国に侵攻したのは6世紀末、新羅により任那が滅ぼされた時期である。任那とは加羅諸国の一部であり、加羅諸国の地は東アジアきっての鉄産地であった。つまり、任那を新羅に奪われるということは倭国の生命線である鉄を新羅に奪われ、倭国は今後新羅との戦争が継続できないことになる危険が生まれたことを意味している。まさにこの時期、倭国は蝦夷の住む日高見国に軍をおくり、そこを服属させようとした。そして7世紀前半を通じてそこに柵を設け、関東甲信越の各地から民を移動させ、日高見国の倭国化を進めようとしたのである。それは、蝦夷という地が新羅・唐の北辺にあたるという地政学上の位置の問題だけではなく、そこが、日本列島においては、出雲と並ぶ鉄の産地だったからである。
日本最初の西洋式製鉄が行われた釜石の北方の山地は、餅鉄という鉄の純度70%以上の磁鉄鉱の産地である。東北地方は、これらの鉄原料をつかって高度な製鉄が行われていた地域である。まさに鉄資源と製鉄技術を求めて倭国は東北(蝦夷)を配下に治めようとしたのである。そして蝦夷の人々は、その鉄をつかった優れた武器を鍛え、その武器と優秀な馬とを持って、朝廷の軍と長期にわたって対峙し続けたのであった。
この戦いは7世紀前半まで続き、一旦服属という形で決着が付くがその後も蝦夷は、朝廷に対して反乱を続ける。
709年には天武天皇に対する、15年に及ぶ蝦夷反乱。770年には蝦夷によって陸奥の国の律令支配の拠点であった陸奥国府が置かれた多賀城が陥落。788年には桓武天皇によって5万の大軍が派遣されるが、朝廷側の大敗北におわる。この間朝廷は数多くの村を焼き払い、兵站を消耗させると同時に、首長に官位を与え懐柔するなど、硬軟交えた戦術を採るが、この戦いは30年にわたり、最終的に直接統治ではなく、蝦夷の首長に自治権を与えるという間接統治の形を取ることで終結する。
しかし「蝦夷反乱」は潰えたとはいえ、その後も「蝦夷独立」の気概は脈々とこの地の人々に受け継がれた。俘囚(蝦夷人)の長=安部氏や清原氏の反乱に始まる、前9年の役や後3年の役等の朝廷の支配を脱しようとする行動。そして平泉に拠点を置いた奥州藤原氏の都の王朝国家に対する半独立的な動きなどがそれである。

○蝦夷の力の基盤と日本史への影響
では彼等、蝦夷の力と独立の気概の基盤はどこにあったのか?
一つは先述した鉄製武器である。日本刀の原型となった蕨手太刀が5世紀の東北の地ではじまったことや、この湾曲した太刀が騎馬戦での使用に優れており、陸奥の俘囚との戦いを経験した源氏傘下の武士たちが、その優秀さに学んで、湾曲した日本刀を作ったこと、さらに後の武士の大鎧の原型が同じく蝦夷の俘囚との戦いの中で、彼ら俘囚の皮で鉄の短冊をつづった軽い鎧の優秀さを学んだ武士たちが、関東の地ではじめて大鎧を完成させたことからも伺われる。
もう一つは馬。東北は有数の馬産業が古来から発達していた。古墳時代には馬は既に全国各地で飼育されていたが、東北はは名馬の産地として定評があった。というのも西の馬は体格も貧弱で、専ら運搬用として使われていたのに対して、東北の馬は戦闘馬専用に飼育されていたからである。平安以降の騎馬戦争の需要が高まるにつれて、東北の馬は朝廷や貴族たちの羨望の的となり、遠く運ばれ高く売れた。
さらには北方交易が挙げられる。アイヌを通じた北海道、樺太、沿海州との交易は古来から行われていたが、特に6世紀末に高句麗が唐―新羅の連合軍によって滅ぼされ、彼等が北へ逃れ、沿海州方面で渤海という国を作ったのち、蝦夷と渤海との交易が始まる。渤海との交流は、遣唐使よりも頻度が高く、遣唐使の平均14年に1回に比べ、渤海使は5年に1回の頻度で送られていた。さらに渤海から日本に渡航してくる民もおり、それが北は出羽の国や越後、南は越前の国や若狭の国に入ってきたのである。
従って、この時期東北地方に中央の百済勢力とは出自を異にする高句麗勢力が入り込んできた可能性が高い。
鷹の羽・アザラシの皮、さらには中国北方の民族との交易で手に入れた絹織物(いわゆる蝦夷錦)を日本各地に供給する重要な地帯であった。安倍氏・清原氏・奥州平泉の藤原氏は、これらの産物を朝廷を初めとして日本各地に供給する事によって富を得、その在地権力を確立していたのである。

蝦夷の独自の文化と歴史は、後の日本史に大きな影響を与えている。例えば製鉄技術は、村落共同体が律令制によって解体された後、35国に分散移住させられた蝦夷が、鎌倉時代にその製鉄技術と軍事力によって、人々を結集させ、惣村を形成させ、地方武士の核となっていったと思われる。また、律令制の揺らぎに伴う権限の地方委任は、律令国家の蝦夷に対する間接統治政策(と自治の継続)を下敷きにしており、そこから地方分権が形成されていったことなどである。

蝦夷の反乱は、新しくは幕末に奥羽越列藩同盟が形成され、東北北海道を中心とした「北日本政権」を樹立しようとした動きにまで及んでいる。
従って東北、北海道の歴史を押さえずして、日本の成り立ちや東北・北海道の日本における位置を考えることは出来ない。
しかし教科書では蝦夷(東北・北海道)の歴史は殆ど扱われることがない。
 
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