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日本人と縄文体質
336448 日本の村落の歴史と自治A
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 18/06/14 AM00 【印刷用へ
○惣村の登場
教科書等で惣村として認識されている中世(14世紀頃)の村は、その内部に、それ以前に独立した村として機能した集落を複数抱えているのが通例であった。つまり村の連合体である。惣の中には、惣の中核的役割を果たし、「都市的な性格」をもつ中心的集落を持っているのが通例である。中心集落は、幾つかの街道が交差する地点に成立した「市」としての性格を持つ物や、「津」や「泊(とまり)」という港とそこに成立した「市」の性格をもつものであった。そしてこの都市的な性格をもつ集落=村がその周辺の農村的な性格をもつ集落=村を統合して、惣とよばれる「自治の村」を形成していた。つまり惣村とは、市や港を抱えそこに商工業者となった人々が集住する村が核となり、そこに工業原料や、農業原料(資料肥料)を生み出す共有の山林、食料や商品となる農産物や林産物・海産物を提供する周辺の村々等が結合して成り立っていたのである。一種の独立経済圏である。
 そしてこれらが、荘園領主や地頭との年貢・公事をめぐる減免の闘争と村の境を巡る村同士の戦いを担っていた。とりわけ統一的な権力が衰弱する鎌倉後期から、南北朝、及び室町後期にはこのような集結は不可欠であり、当然に武装も必要であった。中世の惣村は村落共同体の再生であると同時に、権力の衰弱に伴う同類闘争圧力が生んだものである。
村落の意思の最高決定機関は「村人」全員(正しくは村の家々の代表各1人からなる)による「寄合」であったが、その寄合の決定に基づいて日常的に村務を執行するのは、村の鎮守である社や寺の「宮座」を構成する名主たちであった。彼らの多くは村が出来た時から居住する村の有力者とその一族であり、村の鎮守の社の氏子や寺の檀那衆として、村を代表してさまざまな業務に従事していた。それは祭礼の執行であったり、領主とのさまざまな交渉事や他の村との交渉、そして村の財産の管理や村としての警察・裁判権の執行などである。彼等は地頭と対抗するために寺社や貴族と連合を組むこともあった。
彼ら名主層は苗字をもって帯刀し、村が武力を行使しなければならないときには鎧甲に身を固めて馬に乗り、同じく武装した下人や凡下の百姓を従えて「出陣」したのである。
村の武力とは、村の若者から成り立っており、村の指導層である名主層(しばしば殿原衆と呼ばれた)の若者たち(殿原衆若輩と呼ばれた)を指導者としていた。
このような自立経済圏であった惣村は、所領維持や秩序形成の点から、やがて領主と相互依存の関係となっていく。

○江戸時代の村落共同体
この惣村は織豊政権、徳川政権によって武装解除された江戸時代においても、なお村落自治が継続する。年貢を村単位とする「村請け」制度も維持された。平均的な村の人数は500人程度であったが、村の代表である名主が、複数の村の名主をかねていた例も数多く、それらは規模として室町時代の惣村を実質維持していた。この年貢を納める百姓は、農民に限らず、その中には商人や職人、林業者や漁民なども含まれていた(そもそも百姓という言葉は様々な職業を指す)のだから、年貢そのものが、多様な農林水産業・商工業に依拠していたのだ。そして、農業そのものも自給的農業ではなく、中世戦国時代からすでに商品作物を生産する商業的農業であった。武装は解除され、城下町との関係性が強まったものの、村が独立した事業体であるという、その本質には変わりはなかった。
江戸時代は地方分権の時代(地方の自主管理)であり、共同作業や生活規範はもとより、藩や領主との年貢の交渉も村と領主との間の交渉によって決定されていた。村が不当な税と感じれば抗議し、時には拒否することも認められていた。
このような村落自治は、納税を個人単位とし、地主制が採用され、寄生地主化が進行していく明治まで続いたのである。
 
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