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日本人と縄文体質
336447 日本の村落の歴史と自治@
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 18/06/14 AM00 【印刷用へ
○縄文〜弥生時代
 日本列島に人類が住みついたのが十数万年前、その後旧石器期を経て、新石器期=縄文期に入る。約1万年前のことである。縄文人は、植物採集から狩猟・漁撈、そして焼畑農耕と、多様な生産技術によってさまざまな食糧資源を開発した。縄文人は、初期には移動生活を送っていたが、以後しだいに定着する。一つの集落は、平均的には4〜5戸内外(平均人口30名程度)の竪穴住居が環状に分布する環状集落であった。縄文後期には三内丸山のように数百戸が集結する巨大集落も登場する。
 弥生前期以降、集落の多くは、濠や土塁をめぐらせる、環濠集落の形態をもつようになった。土塁や柵などをめぐらせ、洪水対策や獣類からの被害防止、外敵に対する防御を意図している。集落は大小あるが小さいものは50人ぐらいが住んでいる単位集団である。何戸かで共同の高床倉庫をもち、収穫した稲を共同管理している。小集落の居住員は家長世帯を核とし、兄弟や父母の世帯を合わせた血縁集団。
 このほか、数百メートル四方もの大集落もみられる。それは共同体の首長が住み地域の中心となる集落で、集落の結びつきは、水路などかんがい組織を基礎としている。耕作は個別小集落を単位として実施しながら、水路の造成、洪水からの防御、耕地の開発などは、共同労働によってはじめて実現できた。この頃までは、原始共同体〜村落共同体(部族共同体)として存在していたといって良いだろう。

○古墳時代
 弥生後期以降になると、中心的な大集落を核として分岐小集落が結びつく関係には、大きな変化が起こった。農民層の階層分化である。
 階層分化の結果、屋敷地をもてず竪穴住居群の小集落をつくるもの、さらにその下層に、首長層や上層農民に隷属して、その屋敷地の内外に住まわされるものも生じてきた。さらに、古墳後期には、大規模経営の中に取り込まれた隷属民の分化が生じていたと思われる。こうした階層分化に伴い、環濠で囲まれた大集落が解体した。それまで大規模な環濠集落に共同体成員とともに居住した首長層が、防御施設をもつ自らの屋敷地を別に設け、居住地においても成員から隔絶した。首長層は、濠や土塁や柵で囲った屋敷に住むようになり(彼等は進んだ技術を持つ渡来人だったのかもしれない)、やがてそれは小首長や有力農民にも普及していった。耕作地を他人の所有に依存する隷属民と、支配層の登場である。支配豪族は都に移住し、不在地主化する。そしてこれが飛鳥時代の部民制(べのたみせい=支配氏族・豪族と隷属民)の土台となる。

○公地公民制と荘園制
律令制(公地公民制制、7世紀頃)によって幾つかの重要な変化が起こる。土地は一旦大王(おおきみ)から貸与されることとなり、農民には、租庸調の徴税が課される。他方、公地公民制は、農民に貸与する口分田の開発と増産を目標とした国家による大開拓計画という側面を持っていた。条里制を定め、区画ごとに水利を整え開発するというもので、必然的に開発田への農民の移住も行われた。そこでは集落は人工的に50戸を単位とし、50戸を超えると2つに分割された。
しかし、強制労働+工事の困難さから口分田は不足し、開墾地の私有が認められるようになり、資金を持つ豪族や寺社による荘園開発が急速に進行する。平行して徴税の苦渋等を理由に口分田を放棄する農民が続出し、彼等は荘園に耕作民として吸収されていくことになる。そこでは百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らは、それぞれの領主などに従属しており、割り当てられた点在する「名田」を中心に生活・経済活動は行なわれていた(この名田が年貢徴収の単位でもある)。従って、耕地の間に百姓などの住居がまばらに点在する散居と呼ばれる形態が一般的で、住居が密集する村落という現在のような形態ではなかった。
このような過程を経て、荘園の力の及ばない東国を除いて多くの村落は解体されていく。

○有力農民=地方武士の起源
 10世紀に入り、人口が増え、新田が不足したために、班田収受が行き詰まると、朝廷は地方政治の方針を大きく転換した。国司に税の確保を求めるほかは、あまり干渉せず、地元の政治をまかせるようになったのである。一方、国司は税の確保を有力農民にまかせたので、国司と結んで大きな勢力をもつ農民もあらわれるようになった。
 有力農民層の登場と成長の基盤は、製鉄技術の発達と普及、そして鉄製農具による農法の普及、さらに商品経済の拡大である。
 彼等は律令制度のもとで村を任された「里長」出身のものもいれば、荘園から集団離脱し開拓民となったものなど出自は様々だが、そのうちの多くが、旧蝦夷と見られる。平安時代のはじめに、東北の日高見に服従させ、蝦夷の首長を律令官制の下に統合した朝廷は、日本全国各地に、蝦夷の人々を集団的に移住させた。その場所の多くは「別所」と呼ばれ、砂鉄の産地である。おそらくここで移住させられた人々は、蝦夷の優れた製鉄・鍛治技術をもった人々であった。
 こうして全国に移植された製鉄・鍛治技術を基盤として、急成長したのが「有力農民層」である。当時の農民は、百姓とも呼ばれていたように、技術者でもあり、運搬業も営んでおり、一定のネットワークを持っていた。有力農民のもとで人々は再結集し、初期の自治村=惣村が登場し村落自治が再生されていく。そして、鎌倉時代(12世紀)には、納税単位を農民一人一人から惣村とする、「村請け」に移行していく。

参考:水上の礎(日本歴史土木研究会)リンク
   新しい教科書〜その嘘の構造と歴史的位置〜リンク
 
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