この記事の読者は累積2706人です。
 
日本人と縄文体質
336400 こんなに違うChinaの儒教、日本の儒教
 
本田真吾 HP ( 壮年 香川 建築家 ) 18/06/12 AM03 【印刷用へ
日本の儒教は縄文人以来の、「人をいつくしむ心」を表現するために、中国の儒教の中から、それに合う部分だけを抜きとり再編集したもの。

それに対して、中国の儒教で大切にされているのは「諱(き)」という概念で、身内や上司を守るためには、嘘をついてよいし、むしろ嘘をつくことが正しいとさてれている。それくらいしないと生きて行けないくらい、高く理不尽な私権圧力があったことが原因。

このような違いが、同じ儒教国でも、これほど異なる国民性に分かれた理由。

///////////////////////////////////////////////////////////////
こんなに違うChinaの儒教、日本の儒教
リンク

『南総里見八犬伝』は、江戸時代の後期に滝沢馬琴によって著された物語です。
(中略)
ただ本当は、もっと応用され、伝えられていなければならないのが、この物語の核になっいる「仁義礼智信孝忠悌」です。
これらは、人として大切な道であり、八犬伝は、ワクワクしながら物語を読み進み進むうちに、自然と「仁義礼智信孝忠悌」の言葉と概念を覚えるという仕様にもなっています。
そして物語とともに、これが人の生きる道として常識化していく。
このことが八犬伝と、現代のファンタジーの大きな違いといえるかもしれません。
(中略)
「仁義礼智信孝忠悌」は、文字はChinaの漢字であり、儒教の教えです。
説いたのは2千年以上も前の春秋戦国時代の孔子で、論語の中に登場する言葉です。
ですから「仁義礼智信孝忠悌=Chinaの教え」と履き違える人も多いです。
(中略)
しかし実際には日本における儒教は、我が国にもとからある大和言葉の文化を、儒教に化体して広がったもので、純粋なChinaの儒教とは似て非なるものです。

たとえばChina漢字における「仁」は、他人に対する親愛の情や優しさ、あるいは人として大切な愛を意味すると説かれますが、我が国ではそれを「いつくしむ心」ととらえます。つまり人と人との関係において、大切なことは互いをいつくしむ心にあるということであって、そのいつくしみのなかには、あえて鬼となって厳しくあたることなども含まれます。

また「義」は、China漢字では我が身を捧げることですが、我が国においては、ものごとのことわり、つまり条理や道理を意味する語として使われます。

その一方で、いかに孔子を尊敬したとしても、孔子が好んだ食人習慣などは、我が国ではその片鱗さえも紹介されることはなかったし、また儒教にいう「諱(き)」の概念などは、我が国では単に亡くなった人への贈り名としての「諱(いみな)」としてしか導入されていないし、使われてもいません。

ちなみにこの儒教でいう「諱(き)」という概念は「かくす」ことを意味し、上司を守るためには、嘘をついてよいし、むしろ嘘をつくことが正しいとする概念です。
つまり上司の不実は、部下は他人にかくし、秘匿しなければならない。そのためには、どれだけ嘘をついても、それは正しいことだというわけです。

論語では「諱(き)」は、次のようなエピソードとして語られます。
〜〜〜〜〜〜〜
ある人が孔子に言います。
「私の村にはとても正直な人物がいます。その正直な人物は、自分の父親が他人の羊を盗んだ時に、それを告発しました。」
孔子は答えます。
「その人物を、正直者とはいいません。父は子のために隠し、子は父のために隠す、これが本当の正直というものです」と答えた。
〜〜〜〜〜〜〜
要するに、尊者の為には恥を諱(かく)し、賢者の為には過(あやまち)を諱(かく)し、親者の為には疾(あしきこと)を諱(かく)すことが、「諱(き)」の概念であり、現代語に訳すと、

「偉大な人物についてはその人物の不面目な事柄は隠し、優れた人物についてはその人物の過失を隠し、自分の血の繋がった親族については欠点を隠す」となります。

つまり、避諱の本質は、自分以外の誰かのためにその誰かの恥を隠すこと。
さらに、他の誰かのために「隠す」だけでなく、隠すためには、嘘をついても構わない、いやむしろ積極的に嘘をつくべきだ、となります。

現代Chinaでいえば、国家がいわば偉大な人物にあたります。
ですから中共国家の恥になること、あるいは中共政府の過ちを隠すことは、Chineseにとって「諱(き)」であり、常識です。国民の義務と言っても良い。

さらに国家の威信を護るためなら、嘘をついたりデマを飛ばすことさえも、まさに正義となり、推奨や賞賛に値する行為となります。南京虐殺や百人斬りなどのでっちあげは、ですからChineseにとっては、「諱(き)」であり、あたりまええの常識となる。それが「道徳的な行い」なのです。

このことは、逆にいえば、立証的あるいは弁証法的な真理の探究を基礎とする「科学」は、Chinaの概念では発達しない、ということです。なぜならChineseにとっては、真実より「諱(き)」が大事だからです。

我が国は、何事も「諸命以(もろもろのみこともちて)」の国柄です。
お天道さまに恥じないことが大事なのであって、いかに上司といえども、お天道さまに恥じるような振る舞いがあれば、たとえ部下であっても、それをかくすことを良しとしないのが、我が国の国柄です。だから、いくら孔子の論語であっても、日本人は、「諱(き)」を受け入れてこなかったのです。

たとえ儒教といえども、受け入れるものと受け入れないものが、こうして取捨選択されているのは、我が国に、その言葉に代表される道徳観が、すでに確立されていたことを示します。
 
  List
  この記事は 212801 への返信です。
  この記事に対するトラックバックURL  http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_336400
  ※トラックバックは承認制となっています。

[過去の記事へ]
[一覧へ戻る] [新しい記事へ]


◆実現論本文を公開しています。
 実現論 : 序  文
 第一部 : 前  史
 第二部 : 私権時代
 第三部 : 市場時代
 第四部 : 場の転換
 参考文献


『るいネット』は、45年の実績を持つ起業家集団・類グループが管理・運営しています。るいネットワーク事務局(Tel:0120-408-333, E-mail:member@rui.ne.jp