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古代市場と近代市場
334066 秦氏と日本の金融業の歴史
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 18/03/14 AM00 【印刷用へ
大和朝廷の時代から神社(寺社)ネットワークが渡来人と土着民、渡来人同士、支配者と被支配者、権力者とそれを操る黒幕等、様々な場面で力を持ち、ほぼ現在まで機能している。その神社ネットワークの過半を占め、動かしているといわれるのが秦氏である。

○金融業は寺社から始まった
金融業の最も始源形態は推挙(すいこ)と呼ばれるもので、神社が種籾を貸し、収穫後に農民がお礼として三割から五割増の米を返済するというものである。
本格的な金融業が登場するのは鎌倉時代である。鎌倉時代は、宋からの貨幣(銅銭)の流入で、貨幣経済が拡大していく次期である。その中で「貸上」、「土倉」、「頼母子」等の金融業者も登場する。
「貸上」「土倉」は鎌倉・室町時代の高利貸で、動産・不動産を担保とする。借り手は主として御家人である。質物保管の土倉を構えたことから、貸上は次第に土倉と呼ばれた。後にはこの倉を利用して、盗難や火災を恐れた貴族や商人の財を預かり、この預託財産を担保にした信用貸しにも進出していく。
これらは主として寺院や酒屋が営んだものである。大寺院、特に南都(比叡山)北嶺(興福寺)禅宗(臨済宗)は、公家・武家と密着し、広大な荘園を領しており、日宋・日元・日明貿易にも関与し、大量の蓄銭を行っていた。その結果大寺院が、名主をダミーとして利用し、高利貸を行った。或いは公家の次男・三男が、大寺院の僧侶に転籍し、その妾や子孫が、土倉・酒屋(この両者は重なっている)を営んだと見られる。寺院の中でもとりわけ比叡山(延暦寺・日吉神社)は、密教(最澄)の拠点であり、京においては山城(山背)の国を拠点としていた秦氏の聖山だった。比叡山はそれを譲り受けたものといわれている。

そもそも「酒屋」は、秦氏が酒造技術者を引き連れてきたことに始まる。当初の元締めが、秦氏が建立し酒の神を祀った松尾大社であるが、鎌倉時代には「酒屋」といっても必ずしも醸造をしていたわけではなく、酒造りで蓄積した財を元に、「土倉」を営んだり、今で言う商社のような役割を果たしていた。鎌倉時代には財源不足の朝廷にとって酒屋からの徴税が貴重な財源の一つとなっていた。室町時代には、京都だけで酒屋は347件に達し、弱体化した朝廷や幕府に対して重要な発言力を持っていた。この「酒屋」のうち8割は比叡山系と言われる。

「頼母子講」は金銭の融通を目的とする一種の講。「講」は、寺院建築のため、不特定多数からの資金集めとして使われていた。その延長線上に、「頼母子講」や「無尽」があり、利食のために使われた。この鎌倉時代発の無尽・頼母子が、江戸時代以降の講や無尽となり、戦後の相互銀行にまで繋がっている。

○中世の交易自治都市、堺
南北朝時代の内乱においては、堺の周辺の武士や農村の人々、商人たちは南朝側に味方するものが多く存在した。延元元年(1336年)には堺浦の商人が南朝側に内通したとして、武家方(北朝)の足利尊氏から業務停止処分を受けている。彼らは奈良春日社を本拠とする商人だったが、当時畿内一帯を広く商圏とし、堺の市町の主要な担い手であったと考えられている。この事件は、堺と王権(南朝)との深い結びつきを示している。
そして堺が交易都市として拡大する中で、町衆の中核となったものの多くが前述した「土倉や酒屋」=商社兼金融業者から出発し、樽廻船(大型の船)で交易業に乗り出した商人たちである。この時期には全国各地で貿易都市が発達するが、とりわけ対明貿易や南蛮貿易で発展したのが堺である。
延元3年(1338年)には、南朝方の北畠顕家軍が堺を守る武家方の細川顕氏と戦い、戦死している。これは堺をどちらの勢力が確保するかをめぐる合戦であり、武家方からも堺が重要拠点とみなされていたことがうかがえる。しかし内乱の過程の中で、王権の影響力はしだいに弱まっていき1369年、南朝側の総大将であった楠木正儀が北朝に降伏すると、堺は室町幕府直轄の都市となり、室町幕府の衰弱とともに町衆(36人会合衆)による自治都市を形成する。この時期には他に博多、摂津の平野、伊勢の桑名、大湊などが自治都市となっているが、堺同様、その中核は「土倉や酒屋」であった。

○江戸を代表する両替商 東の三井(越後屋)西の鴻池屋の出自
信長、徳川の武家勢力によって寺社勢力は封じ込まれるが、拡大する市場の中で、金融業は生き残り、勢力を維持拡大する。
東の三井(越後屋)のルーツは、藤原道長の末裔を名乗っていたようだが、史実による確証はない。確かなのは三井家は1100年頃に近江南部に移り、近江佐々木氏(近江源氏)に仕え、近江佐々木氏から養子を迎え、佐々木氏の一族となったことである。この近江佐々木氏は、近江の園城寺(三井寺(みいでら))とも関わりが深い。 元々、この近江佐々木氏一族の住む近江南部は、依知秦氏(えちはたし)など、渡来人である秦氏が多く住んでいる地域。さらに、近江佐々木氏(佐々木六角氏)の拠点とも言える繖山(きぬがさやま)には、観音正寺があり、秦氏と縁の深い聖徳太子の創建とされている。
現在の三井財閥に直結するのは、一族の三井高利である。江戸時代に伊勢松坂で酒屋と質屋で財を成し、江戸に進出して呉服商(越後屋)を開業、成功して幕府御用達の両替商に発展し三井財閥の基礎を築く。

 他方、西の最大の金融業者、鴻池屋も秦氏由来の酒屋である。
現在の大阪府池田市に"畑(はた)"という地名が残ってる。ここは以前、秦上郷・秦下郷と呼ばれていた。5世紀末に造られたとされるこの地の「鉢塚古墳」は秦氏の墳墓とみられている。
渡来した秦氏は、奈良県の葛城や京都府南部の山城を本拠とし、土木技術を武器に地方へ勢力を広げ、摂津北部の猪名川流域においても、山城の国で桂川の治水工事を施したのと同様に、地域を発展させた。江戸時代になると池田・伊丹が酒造りの生産地として名を高める。この地域の有力な酒造元の一つが鴻池屋である。鴻池屋は酒造の江戸への流通を軸に海運業で財を成し、金融業(両替商)を興す。以降明治には鴻池財閥として発展し、金融業では三和銀行を築いていく。
 この酒屋であるが、幕末には長州藩・薩摩藩などの反幕府側も、北国諸藩・箱館政権など旧幕府側も、豊富な流通網・情報網を持つ酒屋に頼った情報入手、物資輸送の例は数知れない。
 
 以上は江戸時代において秦氏ネットワークが、とりわけ商業ネットワークにおいて一定の勢力をなお保持していたことを示している。
 
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