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日本人の起源(縄文・弥生・大和)
328664 縄文人・弥生人とは何者か−2
 
高嶋靖男 17/08/09 AM01 【印刷用へ
国際情勢の分析と予測 から
「日本とは何か、どんな役割があるのか」という問いに対する答えを模索すると、どうしても縄文人・弥生人とは何者かという問いに行き当たる。リンク

(続き)

9万年前の阿蘇山の第4回大規模噴火、2万9千年前の姶良カルデラ噴火、7300年前の鬼界カルデラ噴火など、九州の巨大火山は何度も破局噴火を繰り返して火砕流や火山灰で西日本や中部日本の先住民の縄文人を絶滅させてきたと思われる。そして、それによって人口希薄となった九州など西日本地区に春秋・戦国時代から後漢滅亡までの大陸の内戦・混乱を避けて多数の人々が中国大陸や満州・朝鮮半島などから移住してきたのだろう。中国大陸東部からの移住者が稲作技術を持って西日本に移住したことが弥生時代の始まりなのだと思われる。縄文人のうち、海岸地帯で漁労を行っていた者は稲作を覚え弥生人に変化した可能性もあるが、山岳地帯で狩猟を行っていた者はその生活を継続し、野生動物の解体・毛皮加工などに従事し続けて西日本の被差別部落民に移行した可能性も考えられる。東日本では弥生人の移住が少なく縄文人の多くが農耕民化したために被差別部落問題が少ないのかもしれない。

日本は中国に対し「呉の太伯の後(後継者)である」と主張したことがあるという。日本には漢音が伝来する前にすでに「呉音」という漢字の発音が存在している。また、和服は「呉服」とも称される。魏志倭人伝の伝える倭人の入れ墨等の風俗は呉のそれに近いとの指摘もある。これらの事実は、呉の王族の子孫が九州など西日本地区に移住したことを示していると思われる。ただ、太伯は子供がおらず弟の虞仲の子孫が王位を継承している(紀元前12-11世紀頃)。また、呉の最後の君主は夫差(紀元前473年死去)である。従って、本来は「呉の虞仲の後」あるいは「呉の夫差の後」と言うべきだろう。更に、呉や越と同時期に倭人という集団が存在したことも確認されているという。ただ、当時の倭人の居住地域が西日本なのか、中国東部なのか、あるいはその両方にまたがるのかはまだわかっていないようだ。

上記リンクの「倭人の祖先は呉の太伯の子孫?」ではこの謎について以下のような可能性を挙げている。

@最も分かり易いのが、太伯はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太伯家を繋いで行き、後世になってその太伯家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

A一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太伯の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです。」などと話したというような場合。

B@、Aはどちらも太伯には子孫がいて、それが倭人とつながっている、という考え方だが、太伯に本当に子孫がいない場合、「太伯の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

私は、もう一つ別の可能性を挙げたいと思う。それは以下のようなものだ。

C「倭は呉の太伯の後」の「太伯」とは、「太伯と虞仲の兄弟は荊蛮の地へと自ら出奔し、後になって周の者が太伯らを迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物であると主張し現地にとどまった」という太伯の行動を指しているのだという仮説である。倭人は更なる荊蛮の地であった西日本に自ら出奔する際に、「戦乱と虐殺が相次ぐ中国大陸には決して戻らずに日本列島に骨を埋める」と決意して渡航したのではないかと私は想像する。場合によっては倭人集団の中に呉の王族を含む支配階層で虐殺を逃れた者が潜入しており、彼らが太伯の故事を倭人に広めたのかもしれない。太伯と虞仲の兄弟が荊蛮の地の住民の風習を取り入れて周の風俗を捨て去ったように、中国大陸東部から日本列島に移住した中国系弥生人は、呉音を残した他は自らの言語を捨て去り、満州から朝鮮半島を経て日本に移住した扶余族系弥生人の言語を取り入れた可能性が考えられる。

冒頭で銅鐸文明の出雲王朝を銅鏡・銅剣文明の九州北部王朝が滅ぼした仮説に触れたが、扶余族系弥生人が出雲王朝で、中国揚子江下流系弥生人が九州王朝であったという仮説を私は提唱したい。馬に付ける鈴に由来する銅鐸は騎馬民族の象徴であり、満州など北方草原地帯を示唆する。一方揚子江下流域は南船北馬の言葉どおり馬の移動に適さない低湿地である。出雲王朝が縄文人で九州に扶余族系と中国系の2種類の弥生人がいたという仮説もあり得るが、九州の巨大カルデラ火山の破局噴火は出雲地区を含めた中国地方の縄文人にも致命的な打撃を与えた筈であり、縄文人国家が存在したならその中心は東日本になるのではないかと想像する。更に、銅鐸文明の出雲王朝が縄文人ならば、銅鐸地域である中国地方と近畿地方にはATLウイルス抗体陽性者が多くなる筈だが実際にはそうではないことからも、銅鐸文明の出雲王朝は銅鏡・銅剣文明の九州王朝と別種の弥生人であったことが示唆される。
 
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332193 ミトコンドリアDNAで辿る日本人のルーツ〜縄文人のDNAは、現代の日本人にもしっかりと受け継がれている 斎藤幸雄 17/12/28 AM00

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