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日本人の起源(縄文・弥生・大和)
290447 3世紀列島と半島7〜葛城氏=大物主〜
 
七曜星 14/05/20 PM11 【印刷用へ
『三世紀・三国時代 江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(著:小林惠子)』の「第一章 三世紀までの日本列島と朝鮮半島の」からお送りします。
紀元前から大和地方を支配していたのは葛城氏のようだという。また、銅鐸は葛城氏のレガリアであったという。葛城氏=賀茂氏=尾張氏=海部氏=三輪氏=大神氏などは、同族か派生氏族であった可能性がある。
-------------------------------6より
●葛城氏とナガスネヒコは大物主(大国主)系、タケミカズチは神武系
 奈良県の葛城山の東麓に鴨都波(かもつは)神社があり、その周辺にある鴨都波遺跡が葛城氏の中心地だったと考えられている。ここでは紀元前から後にかけての高床式の建物跡や石器類が出土している。少し後になると鴨都波遺跡のほぼ南、一言主神社に近い場所に、今はほとんど太古からの大木を残すのみの下照姫を祭る名柄(ながら)神社があり、その側に名柄遺跡がある。ここから小型の銅鐸と多鈕細文鏡(たちゆうさいもんきょう)が出土している。この鏡と同じ鏡が大阪府柏原市大県遺跡、下関市梶粟浜遺跡、佐賀県唐津市宇木汲田遺跡、福岡市吉武木遺跡の各遺跡から出土している。鏡は当時は権威の象徴でもあったから、これらの地方が葛城氏となんらかの連合関係にあったことを想定させる。問題なのは同じ多鈕細文鏡が、韓国慶州市の朝陽洞(ちょうようどう)の初期の遺跡から発見されたことだ。葛城氏は半島とも連合していたのだ。

 このように紀元前から大和地方を支配していたのは考古学上からみても葛城氏のようにみえる。一方『記紀』では、スサノオが新羅に去ってから後の葦原中国は、オオモノヌシ(オオナムチ・大国主)とスクナヒコナが共同統治したことになっている。このオオモノヌシこそ東南アジアから北上した月氏族であり、私が第二次東遷のモデルと考える人物である。葛城には鴨都波八重事代主命(かもつはやえことしろぬしのみこと)神社(葛上郡)があり、葛城氏の子孫鴨(かも)君が奉斎氏族と考えられている。一方、『書紀』(神代上)には、大三輪神(おおみわしん)(大物主)の子に甘茂(かも)君がいるとあり、『古事記』崇神天皇条には、大物主の子、オオタタネコは鴨君の祖とある。また、オオモノヌシのもう一人の子アジスタカヒコネは、『延喜式』にみえる大和国葛上郡の高鴨アジスタカヒコネ神社の祭神である。このように鴨(カモ)は、オオモノヌシと葛城氏に共通してみえる。さらに、藤森栄一は、全国36か所の銅鐸出土地がことごとくカモ (加茂・鴨等)、ミワ(三和も含まれる)を奉斎する古氏族の居住地であることを指摘している。銅鐸は大三輪神(大物主)と葛城氏のレガリアでもあったようだ。

 以上述べたように、葛城氏=大物主と考えられる。ともに南方から来たのだが、私は本来、葛城氏は犬戎、オオモノヌシは胡人系の月氏と、両者は民族的違いがあると考える。後発のオオモノヌシが奈良盆地に定着してから、婚姻によって結ばれたのだろう。『記紀』神代によると、その大物主はタケミカヅチノミコトに国譲りをしている。

 神武が東遷した時に迎え撃ったのはナガスネヒコとニギハヤヒだった。大物主の国譲りの話は神代におかれているが、そこに人代の神武東遷の事実が投影されていることは十分に考えられる。人代に係る歴史的事実を神代のこととして記すのは『記紀』の特徴の一つであることはすでに多くの人が指摘している。この『記紀』の手法からみて、神武=タケミカズチ、ナガスネヒコ=大物主と考えて差し支えないと思われる。

 ナガスネヒコ(長脛彦)とは珍しい名だが、『山海経』(大荒西経)には、西北海の外、赤水の東に「長脛」の国があると記している。西北海がどの海をいうのか分らないが、「大荒西経」とは中国よりはるかに西方という意味なので、西北海をカスピ海、赤水をヴォルガ河と仮定すると、その東はまさにスキタイの発祥の地である。「魏志」東夷伝の東沃狙(よくそ)の条に、高句麗を征討した毋丘倹(かんきゅうけん)が聞いた伝聞が載っている。それには東方の海中にある国は女だけで男がいないこと、また、その海中から着物が浮び上ったが、袖の長さが三丈もあったことなどを、土地の古老が毋丘倹に話したという。沃狙は中国東北部から半島の東海岸にかけての地帯をいうから、この海中とは、日本海のどこかだろう。列島には大和盆地だけではなく、ナガスネヒコと呼ばれるにふさわしい巨人型の民族が移り住んでいたのかも知れない。大物主という名も大きい人を連想させ、そのコンビの相手を小彦名命(スクナヒコナ)として、大小を対比させているというのは、誰がみても明らかである。

 スクナヒコナは『書紀』(神代上)に、淡島に行き、粟莖に登って弾かれて常世の国に行ったとみえるので、事実、小さいと思われていたことは間違いない。同じ、『書紀』(神代上)に、スクナヒコナが海の彼方からやって来た時、オオナムチ(大物主)が掌の中で弄んだところ、怒ったスクナヒコナが飛び上がってオオナムチの頬に食いついたという話が載っており、オオナムチの大きさと、スクナヒコナの小ささを対比させている。このようにオオナムチもナガスネヒコも大男であることからみて、オオナムチの異名がナガスネヒコということは十分考えられる。

 大和盆地のほぼ中央にある唐古(からこ)・鍵遺跡は3世紀始め(2世紀末という意見もある)に衰微し、同じ大和川流域だが、5キロ上流の纏向遺跡(桜井市)に主体が移る。推測すれば、唐古・鍵遺跡がナガスネヒコの居住地だった場所であり、纏向遺跡の主は、やはり海外より大和地方にやってきてナガスネヒコに入婿して入り込んだ物部氏の祖先ニギハヤヒだったかも知れない。ニギハヤヒは神武東遷の時にナガスネヒコを裏切って神武に下り、神武を迎え入れたことによって、3世紀中葉以降の纏向の繁栄をもたらしたのではなかったか。
-------------------------------8に続
 
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