学者、マスコミと聞いて、ある環境系のサークルに参加したときの様子を思い出しました。大学の先生、マスコミ、学生、環境運動家などが研究や活動の報告会がなされました。その後、討論会になり、それぞれに分かれて討論が始まる。最初に学者が用事があると言って帰ってしまった。その他は全員残り活発な討論会が始まりました。マスコミの人も学生も環境運動家も相当研究している様子で、分からないことを聞くと大抵のことは答えてくれる。そして、「どうしたら環境が改善されるのか?」「どうしたら環境に対する意識が変わるのか?」という議論になる。行政の環境政策が悪い、行政に働きかけて金を出させる運動が必要とか、意識が低いのは環境に対する知識がないからだとか、いろいろな意見が出ました。その場では何となく、そんなものかなあと感応意識を感じながら、こんな事で状況は変わらないなあと思いつつ聞いていました。
ふと疑問に思い「行政に金を出させることは、財政状況がもっと悪化するのでは、環境改善は過剰消費、過剰生産を押さえる事では」と質問してみました。そうするとその答えは、「それらのことは専門家が考えることです」とバサッと切り捨てられてしまった。この時、なんと一面的な見方しか出来ていないと痛烈に感じました。
大学の先生は先に帰ってしまったが、教えることはするが、議論等したくないと思えてきた(傍観者そのもの)。その他の活動している方は、環境活動は善意で同調できない人は意識の低い方々という感じなのか。根本的な問題をどこまで掘り下げて追求するかという方向には向かわない。彼らの仲間内の統合だけで、強力に運動の輪を広げようとする求心力はなく、もっぱらこじんまりしたサークル活動で満足している様でした。旧い支配観念に固執しているだけの様に思われます。
たとえば、環境に関して、日本人ほど環境に敏感な国民はいない。ゴミの収集ルール守る規範性、リサイクル率の高さ、低公害車の購入、無農薬食品の普及、環境基準法制化、省エネ技術の高さ、食肉の安全管理など、それでも年々環境は悪化している現実にどうするか、旧観念の意識で見ている限る、問題は解決しないのは明らかです。最早、善意などの感応意識ではどうにもならないが、ここの参加していたマスコミ人は感応意識と旧観念意識だけで世の中を見ている様に感じました。そうすると彼らの活動は知識や単なる運動だけで、実現課題は後回しでも良いと思っている。 |
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