数年前、仲間とツーリングの途中で飛騨高山の民宿にと泊まった。民宿は飛騨の伝統民家を民宿に改装して使っている。食事後に、雑魚寝しか出来ないような大部屋に案内された。そこで、民宿のご主人と話す機会があった。見た目60歳前後の若々しい感じである(本当の年齢はわからない)。
職業柄、旧い建物を珍しそうに見ていると、『これが夜這いの時に使う出入り口だったんだよ。』と話してくれた。縁側の引き戸に組み込まれた、小さな出入り口である。その縁側には、屋根裏部屋につながる傾斜はしごが降りてくるようになっている。また、縁側は障子で大部屋と仕切られていて、家人の目に触れることなく屋根裏部屋に入れるようになっている。
これは、社会規範が建築様式を決めている好例である。夜這い行為自体が村社会に共認されていたからである。現代であれば他人が勝手に進入できかつ、家人の目に付かないという構造は物騒でしょうがない。それくらい、村の成員各々が、共同体を基盤として信任関係にあったということであり、私権の対象物である家でさえも、村社会に開かれていたということだ。
そして、ご主人の若い頃はまだ存在した夜這いについての話になった。夜這いがあったころの若者は生き生きしていたこと。新しい社会規範の浸透によって夜這いがなくなってからは、街に女を買いに行くしかなく、不自由な思いをしたことなどを話してくれた。
そのとき、『今の若いもんにとっては、窮屈な世の中のなったなぁ』と実感のこもったひとこと!
この『窮屈』という言葉が印象的だった。というよりも、今まで自分たちは、過去の規範の重苦しさから解放された現代を生きていて、過去よりも自由を謳歌している、という染脳からリアルに解き放された感じだった。よく考えてみると、性自体が親も含めた村社会の中で開放されており、肯定されているということは、現代の個人課題でしかないそれに比べれば、はるかに活力源足りえただろうと思った。
これも支配観念に絡めとられていた証し。なんと、窮屈な思考をしていたことか。しかし今は、支配観念が共認される前提の貧困の圧力もなくなった。だから、事実を鮮明に浮かび上がらせる新理論さえあれば、このような事実をすんなりと捉えられる時代に入った。
性の再生のためには、今こそ歴史的に性と社会の関係を捉え、窮屈な支配共認から脱却すること。その上で、もっと充足できる性関係の共認を広めていける時代になったのだと思う。そこにでは、個人や家族を超えた社会規範の再生と、共同体の再生が不可欠であることは言うまでもない。
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