>しかし、実は市場を支配していた「見えざる手」=絶対的評価者の正体は快美欠乏である。その欠乏自体が持つ歪み、あるいは特定の欠乏への過剰な偏りが価格のアンバランスを創り出していたのだ。
ここに「合理的に行動する個人」を前提として論を組み立てた、従来の経済学の誤りがある。
(6319北村さん)
これまでの一連の投稿から、市場原理に則る全てのものは、評価媒体である「お金」を仲立ちとし、快美欠乏に基づいた評価軸によって価値を定められ、取引されているということがわかります。
つまり、快美欠乏が強く働く貴金属やブランド物、限定品などに極端に高い価値がつけられる一方で、生活必需品のように価値を吊り上げにくいものは安価とされます。
快美欠乏が評価軸の中心である以上、農業などの第一次産業も、自然環境も、人と人とのコミュニケーションも、社会を営む上で必要不可欠であるものはことごとく、低く評価され、やばいやばいといわれつつも後回しにされつづけてきました。
社会において本当に必要なもの、とりわけ類的需要については殆ど経済的には無評価です。それがゆえに社会閉塞に対して求められていることが、ボランティアや殆ど収支の合わない活動になりさがってしまっているように思います。
今求められているのは、社会の営みに真に求められていることをどのように評価し、指標としていくかというところにあると思います。
評価媒体としてのお金のあり方と、評価指標のあり方について、この答えを出すことが、このテーマでの課題であると感じます。 |
|