日本人と縄文体質
83346 モンゴル帝国は“集団”を基盤にした意識から生まれた統合様式A
 
佐藤祥司 ( 42 北海道 建築士 ) 04/12/29 PM07 【印刷用へ
■軍事制度

モンゴル帝国の軍隊は、十進法単位で編成された千人隊・百人隊・十人隊に基づいて形成される。千人隊は遊牧民の社会単位でもあり、日常から各隊は、日常から長の帳幕(ゲル)を中心に部下のゲルが集まって円陣を組むクリエンという社会形態をつくって遊牧生活を送った。彼らは遊牧を共同してを行うとともに、ときに集団で巻狩を行い、団結と規律を高めた。

遠征の実施が決定されると、千人隊単位で一定の兵数の供出が割り当てられ、各兵士は自弁で馬と武具、食料から軍中の日用道具までの一切を用意した。軍団は厳格な上下関係に基づき、兵士は所属する十人隊の長に、十人隊長は所属する百人隊の長に、百人隊長は所属する千人隊の長に絶対服従を求められ、千人隊長は自身を支配するハーンや王族、万人隊長の支持に従う義務を負った。軍旗違反に対しては過酷な刑罰が科せられ、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり生きたまま釜ゆでにしたりすることもあったという。

モンゴル軍の主力となる軍隊は本来が遊牧民であり遊牧生活を基本としていたので、放牧に適さない南方の多湿地帯や西アジアの砂漠、水上の戦闘では機動や兵站に難があってそれが膨張の限界ともなった。これを補うため中国などでは支配民族から徴募した兵士の割合が増す。

支配民族の軍は、東アジアの元の場合では、世襲の農地と免税特権を与えられた軍戸に所属する者から徴募された。その軍制は遊牧民による千戸制の仕組みを定住民にあてはめたものであり、軍戸は百戸所、千戸所と呼ばれる集団単位にまとめられ、ある地方に存在する複数の千戸所は万戸府に統括される。兵士の軍役は軍戸数戸ごとに1人が割り当てられ、兵士を出さなかった戸が奥魯(アウルク、後方隊の意)となってその武器や食料をまかなった。

全軍は、右翼(バルーン・ガル)・中軍(コル)・左翼(ジューン・ガル)の三軍団に分けられ、中軍の中にもそれぞれの右翼と左翼があった。これはモンゴリアにおける平常の遊牧形態を基本としており、中央のハーンが南を向いた状態で西部にある遊牧集団が右翼、東部にある遊牧集団が左翼となる。また、おのおのの軍団は先鋒隊(アルギンチ)、中軍(コル)、後方輜重隊(アウルク)の三部隊に分けられた。

先鋒隊は機動力に優れた軽装の騎兵中心で編成され、前線の哨戒や遭遇した敵軍の粉砕を目的とする。中軍は先鋒隊が戦力を無力化した後に戦闘地域に入り、拠点の制圧や残存勢力の掃討、そして戦利品の略奪を行う。全軍の最後には、後方隊が家畜の放牧を行いながらゆっくりと後に続き、前線を後方から支えた。後方隊は兵士たちの家族など非戦闘員を擁し、征服が進むと制圧の完了した地域の後方拠点に待機してモンゴリア本土にいたときとほとんど変わらない遊牧生活を送る。前線の部隊は一定の軍事活動が済むといったん後方隊の待つ後方に戻り、補給を受けることができた。部隊の間には騎馬の伝令が行き交い、王族・貴族であっても伝令に会えば道を譲るよう定められた。

個々の兵士は全員が騎馬兵であり、速力が高く射程の長い複合弓を主武器とした。遊牧民は幼少の頃から馬上で弓を射ることに慣れ、強力な弓騎兵となった。兵士は遠征にあたって1人あたり7〜8頭の馬を連れ、頻繁に乗り換えることで驚異的な行軍速度を誇り、軽装騎兵であれば1日70kmを走破することができた。

■情報戦略

モンゴル軍の遠征における組織だった軍事行動を支えるためには、敵情の綿密な分析に基づく綿密な作戦計画の策定が必要であり、モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集した。実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力がいれられる。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことがわかっている。

兵士が戦利品の略奪に走ると逆襲を受ける危険があったことから、チンギス・ハーンは戦利品は追撃の後に中軍の制圧部隊が回収し、各千人隊が拠出した兵士の数に応じて公平に分配するよう定めた。

中央アジアの諸都市ではそれぞれで数十万人の住民が虐殺されたとされ、バトゥのヨーロッパ遠征で滅ぼされたルーシの中心都市キエフは陥落後10年経っても人間の姿が見られなかったという。また、日本に対する遠征(元寇)の際は、捕虜の手に穴を空けて連行したと伝えられており、モンゴル軍の残虐さを物語る逸話はユーラシアの各地に数多く残る。しかし、中央アジアではこの時代のオアシス都市としてはありえない数十万人の住民が殺害されたと言われているように、このような言い伝えには誇張もあると思われる。実は、恐怖のモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるために使われたモンゴルの情報戦術のひとつだったのではないかという。

 
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