先日、なんで屋露店に来た女性二人組は何を言っても楽しそう。ニコニコ充足。それだけで店主も周りも楽しくなる。
しかし、そこで店主をやる気にさせた最大の活力源は、彼女たちの答え期待の圧力だった。なんでに答え始めると、待ってましたと言わんばかりに真剣に聞き始める。こちらも彼女らの期待に応えて答えを紡ぎ、彼女らもリアルタイムで評価(反応)する。羅針盤でもある。
「閉塞ってどんなん?」
(ガタガタ現象の事例を詳しく話してってことだな)
「この間、新聞に載ってたでしょ、国の借金700兆…」
発する言葉も周りお客さんに同化し、疑問を代弁してくれる。一言でどんな答えを期待しているかが店主にも伝わる。阿吽の呼吸でどんどん共認充足は深まってゆく。
通行人も興味深げに覗き込んだり、時間がないのか名残惜しそうに立ち去る人もいた。
こちらも自然と(立ち見のお客さんも含め)彼女たちに、もっといい女になって(男たちに闘争期待を加えて)と期待をかける。
脇では弟子が必死でメモを取ったり、ぶつぶつと復唱して覚えようとしている。女たちは彼にも優しい眼差しで期待を加えている。
蒸し暑さも忘れさせるほど、充足感があふれた場になった。
思えば、'70年以降、女たちが社会進出し始めたのも、私権確保のためではなく、文字通り「社会」を統合しようとする男たちの傍で、闘争期待=答え期待を加え、共認充足を求め始めたからではないか。
共認充足を形成する媒体はいくつもある。人と人とがつながれば、それだけで共認空間になるとも言える。そこでの充足度は場を作る参加者の意識、活力に規定される。
なんで屋には男たちをやる気にさせる女がいる。その期待に押されて答えを出そうとする男がいる。だから、なんで屋は、他のどの媒体とも比較にならないほど魅力的なのだ。 |
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