採取時代は文字を持たない文化で考古学的史実は少なく唯一あるのがおびただしい数の土偶や土器の類です。土器はまだしも、土偶については考古学的に第2の道具と言われる様に何の為に作られ使われたのかは未だに推測の域を出ません。しかし明らかにあらゆる単位集団の精神的な象徴として作られた可能性が高く、家屋があれば土偶があるというくらい身近な存在だったようです。
採取時代に土偶や土器が大量に作られたのは一つには定住し食料が安定し男達に多くのひま時間ができた、という事で理解していました。確かに外圧が低下して食料を獲得する為の活動ははるかに減ったと思います。
しかし、土偶の役割は単なる暇つぶしの芸術というだけではない役割があったのではないかと想像します。
採取時代を通してこの土偶がどのように変遷していったかを見ることで一定その役割が見えてくるのではないでしょうか。
採取時代初期は土偶の数も少なく大きさも数センチの小さなものでした。
しかし中期には数も表現も複雑になり大きくもなりました。明らかに土偶への役割が増大した事を示します。(時期的にはちょうど三内丸山が栄え、衰退した頃と一致しているのではないかと思われます)
又、注目すべきは九州地方での土偶の変化です。弥生に突入する直前、BC1000年頃土偶が急激に増えています。土器もさまざまな複雑な表現が加えられます。その時代朝鮮半島から弥生人が入りだし併せて農業が始まった事と重なります。その後弥生時代を迎える九州地方は突然土器の様式が無紋という形に変化し土偶は完全に姿を消します。
この事は土偶や土器の表現が社会が変化したり衰退する直前に一時的に隆盛する事を物語っています。一つの仮説ですが土偶と採取時代の収束不全の度合いが連動しているのではないかと思うのです。土偶が増えたり、表現が多様になる時期は収束不全が高まり、必要以上に集団を統合するためにアミニズムを強化する必要があった。したがってそれを象徴する具体的なモノ(=象徴)の存在が必要になったのではないかと思います。土偶を作り、祭祀を頻繁に行い集団の統合を常に確認する必要があったのではないでしょうか。
そう考えると不全の中身とは集団を破壊するような新しい価値観の流入や突然の自然変化による短期的な外圧ではないかと推察されます。
しかし土偶をいくら作っても略奪集団との闘争には何の役にも立たなかったのは九州の事例からも明らかです。
採取時代の土偶作りも末期には収束不全発の目先収束だったのかもしれません。
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