実際五木氏の言うように、戦後とりわけ'70年以降は「貧困」という「みんな不全」が消え、そのことで人々は目先の私権や遊びに収束していく。そこでの心底にあるものは「自分だけ」であり、「みんな不全」が意識されなくなってしまったからこそ、人の心はトコトン乾ききってしまったのではないか、と私も思う。(貧困という「みんな不全」があった時代には、「共感」や「苦しみの共有」はより大きな癒しを人々に与えていたと思うし、思想にせよ芸術にせよ仕事にせよ、この「みんな不全」にどう応えていくのかが常に心底で意識されていたからこそ、それぞれの営為には、一定の深みがあったと思う。)
そこで氏は心のあり様の転換を説く。ところが、実際直観で人間の意識の奥にあるものをほぼ言い当てている五木氏でさえ、その後の結論は、浄土門徒や石山本願寺の門徒の姿を紹介することで、旧き良き日本人の庶民の中にあった「信念と誇り」を取り戻そうとでも言わんばかりの展開に陥ってしまっている。つまり単に歴史の中にあった本源的部分を省みることに留まっているいる。(おそらく歴史構造と意識構造が構造化されていないが故に、)
しかし問題は現実=人々の意識は既に先行して、統合不全という新たな「みんな不全」に移行している事にある。実際現在生起している、この新しい「みんな不全」が人々の心底に様々な変化をもたらしつつある。(統合板参照 ex)44391)
そして共認機能の構造から考えれば、この新しい「みんな不全」を正しく対象化することが、乾いた心も、人の間に失われた紐帯も、それら含めて人類が再生される、その突破口の先ずは第一歩になりうると思う。そしてそれが実現されるか、単なる懐古に留まるかは、(歴史上及び現在の)外圧構造と人の意識の連関構造を、事実として正確に把握しうるかどうかで決まってくるのだ。
同時にそれが旧観念と構造認識のスタンスの決定的違いでもある。 |
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