>『自我の芽生え』(実は『共認の芽生え』)
人は形式的に名前や所属を与えられただけでは生きていくことはできません。名前や所属が個人にとって意味があるのは、その人の実存に不可欠な何かを他者と共有しているという意識が、そこから得られるときだけだと思います。
自分が何者であるかを知ることは、自分がどこに立っているかを知ることと同義です。つまり、個人の存在は他者との「共認(共に認め合うこと)」によって定義されると思います。この「共認」が、何が善で価値あるものか、何がなされるべきで、何を支持し何に反対するべきかを、時宜に応じて決定するための枠組みや地平を自分のみならず他者にも提供してくれます。
個人であれ集団であれ、アイデンティティの本質が「共認」である以上、それはつねに他者との交渉のなかで形成されるはずです。ということは、本来「自我の確立」とはつねに「独白的」ではなく「対話的」ということになります。
ところが、旧観念では「自我の確立」と「自分勝手に生きること」がどう違うのかわからなくなり、「何をやっても、自己選択・自己責任でいけばいい」というふうになっているのではないでしょうか。
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