今年も8月が、終わろうとしている。広島、長崎に原爆が投下されて、58年目の夏である。
「怒りの広島、祈りの長崎」とは、原爆忌に関してよく使われる言葉である。
その「祈りの長崎」に、寄せて8月9日付け毎日新聞朝刊の「余禄」のコラムに興味深い文章が、掲載されていたので、以下長いが引用する。
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▲今年の原爆忌を前に6月、一人の被爆詩人が亡くなった。山田かん(本名・寛)さん。72歳だった。旧制長崎中学3年の時に被爆し、県立図書館に勤務しながら詩や評論を通して原爆の不条理を告発した。手記「長崎の鐘」で「祈りの長崎」のイメージを定着させた永井隆博士にも鋭い批判の目を向けた▲被爆の中心地、浦上地区はクリスチャンが多い地域だった。自ら被爆しながら救護活動に従事し「聖者」とたたえられた永井博士は「神の摂理」を説いた。戦争という愚かな殺し合いに狂奔した人間の罪に対して神が罰を与えたのだ、と。長年、数々の苦難にさらされてきた信者にとって、その言葉は救いでもあった▲だが、それは罰ではなく、キリスト教の地、米国が同じ信者を含む人々の頭上に落とした大量殺人爆弾ではないか。戦後占領下のGHQ(連合国総司令部)に永井説は歓迎され、大量虐殺の本質や米国の罪悪を隠す役割を果たした、と山田さんは指摘した(72年「聖者・招かざる代弁者」)▲被爆者の祈りとその実相を見つめる文学者の目。「当時、家庭内にはタブーに触れた恐れのような、うっすらとした不安感が漂っていた」。山田さんの二男で長崎新聞記者、貴己さんは今夏、息子の目から見た父と原爆を新聞に連載した▲
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時代的背景(対GHQ)がそうせざるを得ない状況から始まったとは言え、「大量無差別殺人」を「原罪に対する神の罰=観念上のイメージ」に置き換え、そして戦後58年を経てもなおその「幻想」を膨らませ利用し垂れ流し続ける、多数のマスコミ、貧困(飢え)の消滅と共に、知らぬ間に並ぶ者の無い一番の大きな力を得た彼らに、都合よく安易に誘導され、そして思考停止状態のまま洗脳され続ければ、我々は事実が見えなくなりそれについて考える力も皆無となり未来は破滅以外無い。戦後27年を経てなおかつ敢えて「神格化された永井博士」に触れタブーに踏み込んだ山田さんの胸中は、「大量無差別殺人風化させまじ」の熱い思いだけだったろう。
山田さんは最期のメッセージをこう残している。
「言い過ぎてもいい。そこから変化は生まれる。思考を停止するな」。
このメッセージを、現在の閉塞状況をみんなの意見・英知を集めて突破していかねばならぬ我々普通の人々に対する遺言のように感じるのは、私ばかりでは無いだろう。現在一部の大マスコミのみに握られている共認形成力の壁に「蟻の一穴」を穿つ、交流会運動の使命は大きくそして重い。
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