>そう考えると「責任を取って辞める」ってこと自体が、身分や肩書きが絶対であった身分序列社会においてのみ通用する旧観念にすぎないのだと思います。<(59342)
「責任を取って・・・」という言葉は、自分の立場を美化しているように感じる。つまりは、自分がその立場を放棄することによってその集団がもつ私権体質を維持しようとする意味での「責任」なのであって、決して一般市民に対しての責任ではない。そのような言葉が出る集団に「みんな」の意識は皆無なのだと思う。
誰もが感じているが、「責任を取って辞める」発言は「責任を取らない」発言に聞こえてしまう。辞めることによって、その私権集団の存在が維持されるからであり、また金太郎飴的な性格を持った人間がその地位を継承するだけで、結局社会に対する影響はほとんどない。
>もう少し詳しく言えば、誰もが認める事のできる観念を共認していくことによって社会が統合される時代に変わったのだと思います。<(59487)
集団のトップと称される人たちから、不祥事の度に出てくる言葉こそ旧観念であり、その言葉を煽って茶の間の味方のように振舞うマスコミも結局のところ同じ穴の狢。
>そう考えると共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。<
特権階級や発信階級の観念≠誰もが認められる観念、この部分をみんなの実感で気付いていくことが大切だと思った。 |
|