>貧困が厳然としてあった70年までであれば、「貧乏人は麦を食え」といった特権的な身分意識まるだしの発言(池田首相’50年)も可能でした。池田首相にはこの他にも「(中小企業の)五人や十人倒産し自殺しても国民全体の数からみればたいしたことはない。国家財政をたて直すという基本政策のもとで多少の犠牲はやむをえない」という発言もある。(いずれも分相応、貧乏人は黙ってろ!という「私権規範」を下敷きにした発言である)山澤さん 58648 。
しかし1960年代後半以降、人権と福祉を基本スローガンとして掲げる革新首長の続出、更にはそれを受けての自民党・田中角栄の福祉政策への転換などの一連の事態の推移は、「貧困の消滅によってもはや私権規範(貧乏人は黙ってろ)では統合できない」という統治者側の状況認識 の変化があったことを示しています。つまり国民大衆の「共認」を得ない限り最早社会は統合できなくなった、という決定的な変化が起こったということを示しています。
逆に言えば、概ね1970年ごろまでは、基本的には「力の原理」で統合されていたのに対して、それが通用しなくなっていく過程だといえるでしょう。実際その前後を境にして、この類の政治家の発言は「問題発言、大衆蔑視発言」としてマスコミに叩かれる格好のネタとなっていきます。
だとすれば、旧秩序(私権統合)を形成していた「力の原理」の根幹にあったのは「身分序列」にあったのではないでしょうか?そう考えるとほぼ同時期に起こった旧体制の全否定を掲げた全共闘運動が、教授の吊るし上げに象徴される様に、旧権威(≒社会的身分が持つ権力性)の否定を核にしたのも、旧体制の根幹にあったのが身分秩序であったからと、理解できます。またその後「反身分=反差別⇒平等→人権」等の旧観念に導かれた運動が顕在化していく事とも整合します(その代表が'70以降の部落解放運動)。
実際平等という観念は近代以降ずっと唱えられつづけていましたが、それらは一切実現されること等なく文字通り「お題目」でした。名家や庶民等の身分格差は実態としても意識としても存在しつづけてきました。(近代に起こったのはそれらの上流階級の列に成功した商人階級や資本家が付け加わったに過ぎません。)つまり力のヒエラルキー→身分序列と身分意識は私権時代一貫して存在し続けています。
それが貧困が消滅する事によって、その力の源を失い、それまで抑制されてきた不当感のマグマが噴出したのが上記の現象ということになります。だとすれば現在起こっている形骸化した旧観念の支配もマスコミの共認支配も、貧困の消滅に伴って力の身分原理から共認原理へと社会統合の様式が180度転換する現実基盤=実現可能性が開かれた、という可能性現象として捉える事が可能になります。 |
|