>すぐにまわりに影響されない「自律性の感覚」が重要であるとの結論には疑問があります。評価でも仲間とか、年長者といった同一視できる対象からの評価はむしろ、効力感を導きます。仲間からの好意的な反応、暖かい交流、自分の成し遂げたことが他の人の役に立った、喜んでもらえたことは、ある意味で評価です。
周りに影響されない「自律性の感覚」とは確かにどこかおかしいですね。
最近読んだ子育てに関する記事で、母親には「子供の心を映し出す鏡、あるいはモニターとしての役割が重要」というのがありましたが、これなどは周りの仲間によって育まれる「自律性の感覚」とでもいえるものかもしれません。
どういうことかというと、母親が子供と接するとき躾や規範を教え込もうという意識でも、泣きじゃくっている子をなんとかなだめてみようという意識でもなく、子供と同じ感情を表情や身振りや言葉を使ってその感情を実況中継してあげる、それを子供はモニターとして眺め自分の内的状態に気づいていく。かんしゃくを起こしている子供は自分の心情がどのようなものか、はかることが出来ないが、鏡のように映し出せれた母親の表情を見ることでそのことが相手にどのように映り、相手はどのように感じるか気づく。教えられたというよりもよくわからなかった心情を相手と共有できたことに対する安心感がまずは芽生え、やがてそれが「みんなに迷惑をかける行為」なのか、「みんなの役に立った行為」なのか、決して自分とは無縁な世界で決められたものではない「実感できる評価」として学ぶことができる、というようなことだと思います。
プラス視できる仲間たちと共有される評価を肯定的に受け止め、そこで発生する役割や期待に対し応望する主体は、皆であると同時に自身でもあると受け取る感覚であれば、「自律性の感覚」というか、「自ずと行動する感覚」とでも定義付けられるのかもしれません。
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