縄文の文明についての投稿を楽しみにして拝見しています。5402の坂本さんがおっしゃっている…、
>彼らは、農業を知らないから農業をしないのではなくて、余暇を守るために農業を拒否したのだ。
→とアフリカのハドサ族の例を出しておられますが、このことは同じ「未開民族」であった、縄文人にも当てはまるのではないでしょうか。
土偶や火焔土器などの、芸術作品とよんでも良いくらいの造形物、金属器のなかった時代の穴の空いた翡翠(三内丸山から出土しました。鳥の骨で空けたと推定されています。かなりの「余暇」がないと無理です。)…。
確かに、縄文人の平均余命は14〜15歳位で、遺骨のほとんどが30歳台だったらしいですが、このことで縄文人は「不幸」だったと思われがちですが、「希望」もなく70〜80年も生きる現代人のほうが「不幸」だと思うのは私だけではないはずです。
森本哲郎氏は、三内丸山遺跡は「四大文明」に肩を並べ、「五大文明」の一つに数えられる可能性がある、と述べておられます。
以下少々長いですが、抜粋して投稿します。
>古代文明といえば、私たちは、まず、大河のほとりに生まれた「四大文明」を思い浮かべる。 ナイルが育てたエジプト文明、チグリス、ユーフラテスの岸に生まれたメソポタミア文明、インダス河畔に 栄えたインダス文明、そして黄河の流域に形成された中国文明である。
(中略)
だが、果たして、そうなのだろうか。こうした“常識”を、一挙にくつがえしたのが、昨年7月、青森市の 近郊で発見された、縄文時代の三内丸山遺跡だった。5500年前と推定されるこの巨大な集落は、村という 概念をはるかに超えて、都市といってもいいほどの規模と計画性を示しているのである。
5500年前−
ということは、紀元前3500年である。それを世界の「四大文明」と比べてみるといい。古代エジプトで第一 王朝が始まったのは前3000年ごろ、ギザの台地にクフ王の大ピラミッドが築かれたのは前2600年ごろ、 とされている。とすれば、三内丸山の縄文“都市”は、ピラミッドより1000年も前に出現していることになる。 「歴史はシュメールに始まる」といわれ、最古の文明と考えられているそのシュメールが、メソポタミアに初期王朝を開いたのは、 前2900年、三内丸山よりも600年もあとである。また、インダス河畔にモエンジョ・ダロ、ハラッパーなど の都市文明が興るのは、前2400年ごろ、なんと、三内丸山より1000年もたってから、なのである!
さらに、黄河文明と比べてみよう。この大河の流域で竜山文化と呼ばれる中国文明の萌芽が見られるのは、 やはり、前2400年ごろ、すなわち三内丸山より1000年も遅れている。むろん、それ以前に華北で 仰韶文化が現れており、また長江(揚子江)下流の(注1)かぽと遺跡からは、稲作の遺構も確認 されている。が、これとて三内丸山と、ほぼ同時代なのである。
(中略)
まだ全体の8分の1しか発掘していないというのに、出土品はダンボール 4万箱に及んでいる。全域を掘ったら十数万箱にものぼる見通しだそうである。その出土品の見事さも さることながら、私が何より驚嘆したのは、直径なんと80センチの巨大なクリの木柱を何本も使用している、という その痕跡だった。80センチの柱を造るには、少なくとも直径1メートルの大木を伐採しなければならない。 そのような作業が、どのようにして可能だったのであろうか。
(中略)
だが、三内丸山に1500年にわたって住んだ縄文人は、同時代に、木材のなかでもきわめて堅いクリの 巨木を自在に使用しているのである!
私はこの遺跡は、縄文時代の常識をくつがえすだけではなく、ひょっとすると、世界の文明史に一石を投じる のではないか、とさえ思っている。もしかすると「世界五大文明」になるのではあるまいか、と。むろん、 それは今後の調整を待つしかないが、沖館河という小河川のほとりにひろがるこの“交易都市”は、それほど 大きな期待を抱かせ、私たちを招いているのだ。 |
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