> 私たちは、いくつもの共認域が重なり交じり合う空間に生きており、私達自身がそれらの共認形成の当事者となっている。そして、そう認識するだけで、共認内容が変わりさえすれば、社会や集団そのものが変わっていくという単純な事実にも気がつく。(55661)
「社会が遠く感じられる」「リアリティがない」というのも交流会でよく聞かれる言葉です。それも今、社会という空間を認識する道具が役に立たたなくなってきた結果なのだと思います。
私たちは多くの場合、社会というものを「制度の集合物」として捉えているように思います。そして、私たちの実際の行動や生活も、自分が思っているよりもずっと強く、その制度によって律されています。「なぜ学校に行くのか?」「なぜ就職するのか?」「なぜ結婚するのか?」という問いの答えも、直接的には「社会の制度がそうなっているから。」です。
しかし元来、制度はアプリオリにあるのではなくて、ある共認域が成長し、その組織化・秩序化の結果として構築されるものです。一旦生み出された制度は一定の固定度を持ち人々の観念と行動を規定するようになりますが、あくまで本質は潜在思念から始まる人々の共認域の方であり、先に変化するのもそちらです。だから、制度がうまく機能するのはその2つが整合している間だけだということが言えます。
現在は、潜在思念の方は変わっているのに制度、さらにそれを成り立たせている観念全体が古いので社会が遠く感じられるし、実際の行動も潜在思念とズレてしまっているから自分自身の生活にもリアリティが感じられない、という状況です。そのフレームを取り払い、社会は制度の集合物である以前に自分自身も含む意識の集合物であることに改めて気付かせてくれるのが、人々の意識がつくり出す同類圧力の“場”を指し示す「共認域」という概念装置なのだと思います。
> 貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。(20355) |
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