>もともと誰にでも備わっている「誰かの役に立ちたい」「役に立つことで喜んで欲しい」という純粋な思いと、“福祉”という観念や制度の間には、実は大きな断層があると考えざるを得ません。
阪神大震災の時、地元の人々は、福祉という観念や制度とは無関係に、お互いを助け合いました。
>既に無数の規範や観念に脳内が覆われた現代人には、原基的な「共感」をイメージすることが極めて困難である。しかし、ごく稀にそれに近い感覚を体験することはある。例えば阪神大震災の時に、多くの関西人が体感した感覚が、それである。大地が割けたかと思う程の大揺れに見舞われ生きた心地がせず、足が地に着かないような恐怖に慄いている心が、外に出て誰かと言葉を交わすだけで(それ以前に、生きている人々の姿を見るだけで)、すーっと安らぎ、癒される感覚、その時作動していたのが意識の深層に眠る原猿時代の共感充足の回路ではないだろうか。特に留意しておきたいのは、その凄まじいほど強力な安心や癒しの力は、自分の家族や知人からではなく(そんな意識とは無関係に)、誰であっても誰かが居りさえすれば湧き起こってくるものであったという点である。(実現論1_4_06)
地元の人々の助け合いは、共感を土台にして、「何とかしよう」とする当事者意識から生まれたものだと思います。ところが、外から参加したボランティアたちの中には、地元の人々の気持ちを顧みず、迷惑がられた者も多かったという話を聞きます。この事例からも、「福祉」という制度や観念は、共感や当事者意識とずれた所から登場した疑いがあります。そこで、「福祉」という観念や制度の起源を見てみます。
>民主主義・福祉主義をより強く要求したのは、支配階級ではなく、大衆の方であるという現象事実がある。しかし、大衆と言ってもそれは市場の住人のことであり、市場の住人である以上、(支配階級発の)豊かさ追求⇒市場拡大を自己目的化せざるを得ないのは当然である。また、市場で生きてゆく以上、自らの私権要求を実現すべく民主主義を主張し、福祉主義を主張するのも当然である。更にまた、(支配階級と違って)市場で生きてゆくしかない以上、民主・福祉の要求が(支配階級より)切実になるのも当然である。(中略)彼らはそもそも市場でしか生きてゆけない様に囲い込まれた市場の囚人であるという、より決定的な事実には何ら異を唱えず、盲目的に従っている。それは、性闘争→性権力→男女共認によって市場(=都市)で豊かな刺激に囲まれつつ、より豊かな生活を目指すことが理想だと思い込んで終っているからである (実現論2_9_05)
福祉という観念は、(市場社会の中での)貧困という「みんな不全」⇒貧困からの脱出という「みんな期待」から作られたものです。それは、市場の囚人であることは覆すことはできないという実現不可能視と傍観者性に立脚した支配共認となっています。せめてもの心の慰めとして頭の中だけを充足させる価値観念の一つが、「福祉」という観念なのではないでしょうか。だから、唱えているだけで自己正当化される免罪符となっており、異を唱える人を否定する理屈になっているのではないでしょうか
>性権力者に主導された民主国家は、(豊かさ要求の産物たる)市場拡大と(要求主義・権利主義の産物たる)福祉制度によって、'70年頃、遂に貧困を消滅させることに成功した。但しそれは、貧困を消滅させるに至った類間の圧力(社会的な力関係)という観点から見た見解であって、自然・外敵圧力と対峙して貧困を克服した直接的な力(物質的な力)という観点から言えば、その主役は科学技術であり、要するに人類は極限時代から営々と蓄積してきた事実の認識→科学技術の進化によって、遂に貧困を克服したのだとも言える。 (実現論3_3_01)
貧困という「みんな不全」がある時代は、「福祉」を唱えれば、皆の賛同を得られましたが、貧困が消滅すると、福祉への「みんな期待」もなくなります。福祉観念に囚われている人々は、存在理由を失って、皆から浮いてしまいます。だから、わざわざ貧しい人・困っている人を探して、自らの存在理由を守ろうとしているのではないでしょうか。(52390中には貧しい人もいる…」という発想)
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