19世紀に出現した専門的知識をもった科学者と呼ばれる社会階層は、初めは決してヨーロッパの中で無条件に歓迎されたわけではなかった…。その上、こうした専門家はその知識を売って生活するという「職業化」という意味も運びがちであって、その点も先輩の知識人から科学者が嫌われた理由に含まれていたのかもしれません。大学はそれまで技術者(職人)は絶対には入れない世界であった。つまり、19世紀以前の知識人(哲学・神学者)は技術者を忌避していたということです。
そこで、第一世代の科学者たちは、まず同業者組織を作ることで対抗しようとしたわけです。19世紀前半には、科学振興協会のような組織、19世紀後半には専門学会の組織化を実現したわけです。これが、科学者の制度的対応の一つの特色になっていく。そして、一般の同業者組織と科学者の専門学会との間には、大きな違いが見られるようになります。
それは、科学者集団の自己閉鎖性と自己充足性という言葉で表すことができると思われます。従来の同業者集団には必ず特定の客(需要)が存在していたのに対し、科学者の専門家集団はクライアントがほとんどいなかったわけです。だから、技術者は特権階級ではなかったが、科学者は生産と切り離された特権階級であったと表現してもよいと思います。
つまり、産業革命後彼らの科学技術が市民の評価となりつつあったのは事実であるが、あくまでもそれはまだ特殊な状態であって、科学においては、知識の生産、蓄積、流通、消費、評価がすべての科学者の共同体、専門家集団の内部で行われ、その集団の外部とほとんど一切繋がりがないままに進めることのできる営みだったのです。
科学のこのような自己閉鎖性・自己充足性を助長したのが、大学の近代化と考えられます。「大学内部の完全な自治、教える自由と学ぶ自由の最大限の保証」、こうした近代的な大学の理念が、外部社会から隔絶された駆け込み寺のような機能を大学に与えたのです。この点は現在盛んに叫ばれている「学校」の問題にも繋がるところでしょう。また、そのようにして作り出された科学技術が、必ずしも大衆の役に立つものではないというのも肯けるものがあります。
しかし、この閉鎖的科学技術が、20世紀になって飛躍的に発展したのはなぜか…。 |
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