こうえいさん、こんにちは。梅原猛の『共生と環境の哲学』ですか。まだ、私は読んでいませんがおもしろそうですね。「共生と環境」というテーマで梅原猛がいよいよガイア理論(仮説)との関連で述べているのかと驚きましたが、こうえいさんの抜粋から憶測するに、そうではなさそうですね。
>「いままで未開とか原始という名で軽視されてきた民族がもつ、深い隠された知恵にこそ学ぶべきものがある。そういう民族の文化のなかには、いかにして人間が自然と共生していくかという深い知恵が隠されている。」<
これは、レビィ・ストロースの構造主義とは全く異なったものですね。むしろ、「人間と自然との共生」という価値を過去(もちろん未開部族でもよいですが)に見出そうという積極的な考えですね。歴史を遡って現在の問題を構造的に明らかにし、突破口を見出すという姿勢は実現論に通じるものだと思います。
ただし、私は自然と人との共生というときに、確かにあらゆるものを「共生」とか「共進」という概念で説明できそうな気もしますが、ゆはり盲目的な「共生思想」と言うのは危険であり、原始人よりもはるか以前の生物(生命体)は、本当に環境との共生戦略をとってきたのかという検討と、その共生の中身を明らかにすることが必要ではないかと考えます。
まず、共生のイメージを持った方がよいかと思いますので、共生について。共生とは生物学では「異種の生物が物理的に接触して、一緒に生活している現象やその生活システム」(本来はあくまでもシステム)の事を一般にさしています。そして重要な視点は、「共生によって、新しいものが生まれる。違うものになる」という点です。そして、一つだけでは独立して存在できず(生物にならず)、二つがそろって相互作用があって初めて生物(共生体)として存在できるわけです。
「人間と自然との共生」というように拡大して共生という言葉を使ったとしても、上記の点は押さえておく必要はあるでしょう。人間と自然との共生体とは、人間が自分達を取り巻く自然環境と生命的な調和をもち、自ら組織化していくことのできる一個の巨大な生命体(生命圏)として、捉えるということでしょう。梅原猛が構造主義から展開しているとすれば、この調和した生命体(全体)を最上位の階層に置き、その下にさまざまな生物(もちろん人間も含まれます) 達(個)がおり、それぞれがまた自然との共生体として秩序化しており、最下層に地球という自然環境ということでしょうか…。この3者の調和が重要であり、それがどのように果たされてきたのか…。その階層間の関係と全体との関係…。
私はもちろん、共生あるいは秩序という言葉には、競争とか規制という意味も含まれていると思いますので、間違っても、「みんな仲良し」的な言葉としては捉えていませんが、「共生思想」を甘い言葉にしないためにも、やはり生物の適応戦略を鮮明にしていくことが重要ではないかと思っています。 |
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