私権時代、とりわけ市場時代の人間関係は、私権取引的な自我共認の色彩が強く、私益競争の不全感から解脱するための遊び仲間でさえ、欺瞞観念的な自我共認が関係の中軸となっている。
それに対して、新しい潮流の源泉をなす当時者欠乏、とりわけその核をなす(外向収束に基ずく)答え欠乏は、私権取引とは無縁な『普遍欠乏』であり、そこで求められているのは、欺瞞観念とは無縁な万人普遍の事実認識である。
従って、当事者欠乏⇒外向収束を源泉とし、答え欠乏を中軸とする新しい潮流は、必然的に私権時代の古い人間関係とは無縁な全く新しい人間関係を生み出してゆくことになる。
では、人(ひと)収束⇒認識収束という新しい潮流が生み出す新しい人間関係とは、どのようなものになるのか?
その点で、認識営業の実践の中から初めて新しい人間関係の在り様が実感され始めてきたことは、大いに注目される。と同時に、まだ足りない所も浮き彫りになってきた様に思う。
新しい関係が『認識仲間』と呼ぶべき関係であることは、既に25433「解脱仲間から認識仲間への逆転」で明らかにされているが、より具体的で日常的なつながりの様式はどのようなものなのか。
例えば、メル友に見られる携帯メールや万人に開かれたインターネットという『つながり様式』は、新しい関係様式を象徴している様にも見えるが、はたして携帯メールやネットが求められる新しい関係様式なのか。
認識営業においても、重要なのは「日常的なつながりをどう維持してゆくか」であり、これまでの議論ではこの『新しい日常的つながりの様式』の追求が欠落している様に思われる。 |
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