>マスコミは市場の拡大と共に勢力を拡大する。つまり市場拡大によって破壊され、喪われた村落共同体の体感共認に対する代償充足の欠乏を栄養源とする。芸能や演劇がその中でも喪われた本源欠乏に代償充足を与えたのに対して、ニュースはおしゃべりのネタ、つまり面白おかしく現実を脚色して発散するという形で、肥大する自我の発散欠乏に照準を当てることから始まっている。
市場拡大、つまり一般市民の消費者層化の時代、ヨーロッパではローマ時代が最初のそれに当たります。コロッセオの建設とそこで無料の決闘ショー(奴隷とライオンを闘わせる)が皇帝のプレゼントという形で開催されました。まさに市民の肥大する自我の発散欠乏を解消するという人気取り政策でした。と同時期に最初のマスコミと言われる、弁論師が活躍した時代ですね。(紙自体は高価な為、市民への伝達は街角での演説という形だったそうです)
日本では都市部の市民が最初に消費者階級となった江戸時代とその瓦版です。
私権時代の私権自我収束と肥大する自我の発散欠乏に照準をあてて生まれたマスコミ。まさにその点ではローマ時代、江戸後期、現代とその符号(内容)は一致します。
すなわち私権共認のもと、一部の為政者(権力者)と市民の総傍観者化から生まれたあだ花がマスコミであると。
そう考えると私権の衰弱とそれにより開かれた社会統合化の時代に生きる人々にとって、まして認識形成サイトに参加している我々にはマスコミはまさに無用の長物以外のなにものでもない、と言えるのではないでしょうか。 |
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