>マスコミは市場の拡大と共に勢力を拡大する。つまり市場拡大によって破壊され、喪われた村落共同体の体感共認に対する代償充足の欠乏を栄養源とする。芸能や演劇がその中でも喪われた本源欠乏に代償充足を与えたのに対して、ニュースはおしゃべりのネタ、つまり面白おかしく現実を脚色して発散するという形で、肥大する自我の発散欠乏に照準を当てることから始まっている。(37953 北村さん)
10数年ほど前から、民放各局もニュース番組に文壇や芸人上がりの花形キャスターを擁し、ニュース番組自体を売りにするようになり、そのキャスターが語るまことしやかな解説・感想を前面に押し出すことにちょっと違和感を覚えたものです。それまでは報道番組にはそのような個人の価値観があまり含まれていなかったからかもしれません。
近年では、芸能人・元プロスポーツ選手・大学の教授・弁護士等というお決まりの構成のコメンテイターなるものが多数出演し、好き勝手な感想・意見を織り交ぜ、まったくためになるとも思えない個人の(多様な)価値観を垂れ流しています。それに対しては、その無責任な言説に対して違和感を通り越して、怒りを覚えることもしばしばで、この間の議論を通じて改めて傍観者が共認形成を先導することの異常性・犯罪性を認識しました。
スイッチを入れるとすぐに解脱や親和・共認の代償充足や自我充足が得られるということで、いまや一家に一台以上の割合で普及してきたテレビは、今までの即時性や中毒性という側面からすると、新しい認識形成にとっては大きな壁となると思っていました。
しかし、この間の皆さんの意見から、新たな可能性がまた見えてきました。新しい認識は人々の心(潜在思念)に響き、自ずとそれを日常でも常に意識し実践していくものであるということです。
以前に提示された「現実(社会)は人々の意識である(20355)」、「同類圧力は、新しい認識によって生み出される(26868)」、「必要か必要でないかの真っ当な判断・・・(33821)」、「もう、傍観者はいらない(32569)」、これらの認識をもってテレビと対峙したとき、必ずやスイッチを切り、るいネットに向かうはずです。現に私自身もいまでは「必要か否か・・・」等々が頭をよぎりスイッチを入れることにも躊躇するようになりました。るいネットの認識は、確実に現実の生活に浸透し、テレビ離れを加速することでしょう。
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