ある特定の個人や集団が(皆に認められて選ばれた訳でもないのに)、人類にとって最も重要な共認の中身を支配しているということは、実はたいへん危険なことです。マスコミがしてきたことは、民主主義や言論の自由とは名ばかりで、大衆の「野次馬根性」に付け入ることで、人々の意識をほとんど一色に塗りこめてきたというのは、北村さんの指摘されるとおりだと思います。
このような共認支配の問題として、マスコミが認識の評価機関としての地位を独占している点がひとつ挙げられます。
私は10年少し前に、企業の広報担当としてマスコミからの取材に随分対応したのですが、彼らの取材態度はまさに「取材してやる、記事にしてやる」という見下す姿勢そのものであり、原稿のチェックも被取材者側にはさせないし、掲載された記事も(こちらが最も重視して語った内容は無視して)まさに「野次馬」受けする枝葉末節の話ばかりになりがちです。つまり価値判断や評価判断の裁量権に関しては、決して貸す耳を持たないのです。
評価を密室化し独占するマスコミがつくってきた危機に風穴を空けないと、人類の存亡を決しかねない共認形成を健全化することはできないのは明らかです。
今話題になっているこの問題は、単にマスコミは不要である(あるいは害である)と断ずるにとどまらず、マスコミに替わる本来の共認形成の「場」の意義と可能性をより鮮明にしてくれるテーマだと考えています。
皆に開かれた「場」で、皆の評価によって自前の認識と共認が形づくられていくことが、どんなにすばらしいことか・・・。認識は絶対に必要なものだから、皆の総意という最も透明な評価によって認識が精錬されていくという「るいネット」の在り方が、やはり最もふさわしいと思います。
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