日本人と縄文体質
348330 『縄文にハマる人々』はなぜハマるのか。
 
柴田英明 ( 29 会社員 ) 19/08/09 AM00 【印刷用へ
ビジネス、アート、様々な分野で世界的な注目を集めている「縄文時代」。
なぜ、今、現代人たちは縄文時代に魅せられ、はまるのか?

以下、リンクより転載
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(前略)

■縄文という物語を編んでみる
縄文の土器といえば、火焔型土器を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は時代や場所によって様々な特徴を持ち、本当に豊かなバリエーションがあります。しかし、共通しているのは過剰な装飾です。縄文という名の通り縄で文様を付けたものもあれば、手描きで模様を描いたものもあれば、粘土でつくった人間や動物のモチーフを貼り付けたものもあります。

しかも、それを縄文の人たちは日常的に煮炊きや食器として使っていたと言います。効率を考えれば弥生式のシンプルなものがいいに決まっているのに、なぜ縄文の人たちはそんな過剰な土器を日常的に使っていたのか。その謎こそが私が縄文に惹かれる大きな理由なのです。

その「なぜ」を私なりに解釈すると、縄文の人たちにとってはその方が心地よかったからではないかと思います。私たちが100円ショップの茶碗ではなく気に入った作家さんのお茶碗を使いたいと思うように、縄文の人たちはあの土器を使いたかったのではないか。それを使うことで豊かさを感じることができたのではないか、そう思うのです。

それはただ生きるため以上の何かです。生きることだけを考えるなら効率を求めればいいものを、そうではなくてそれ以上の何かを暮らしの中に求める、その有り様に私は惹かれるのです。

縄文の人たちの暮らしを考えると、生きることはそれほど容易ではなかったはずです。縄文時代は温暖化が進んで食べ物が豊富にあったため定住が進んだ時代と言われますが、それでも季節や気候変動によって食べ物に困ることもあったでしょう。それでも縄文の人々は生きるために最低限の道具ではなく、それ以上の意味を持つ道具を使っていたのです。

現代の私たちはどうでしょうか?ただ生きるため以上の何かを暮らしの中で手にとることができているでしょうか?
私はそのような「何か」を縄文の人たちにもたらし得たのは、彼らの暮らしが「いかしあい」によって成り立っていたからだと思うのです。

縄文の人たちは狩猟や、漁撈、採集など生きるための活動を協力して行い、加えて土器づくりや祭祀といったただ生きるため以外の活動も協力あるいは分担して行っていました。それは命を支え合う「生かしあう」関係の上に、それ以上の何かを与えあう「活かしあう」関係が築かれていたともいえるのではないでしょうか。

■なぜ縄文が現代に必要なのか
さて、私が縄文に「いかしあうつながり」を見出した一つは、今言ったような人と人とのつながりですが、もう一つ感じたのは、人と自然とのつながりです。そのことについて考えるきっかけになったのは、映画にも出てきた、貝塚に人の遺体も「捨てられて」いたという話です。

貝塚というのは「ゴミ捨て場」と言われたりしますが、実際は現代人が考えるゴミ捨て場とは異なり、集落の中心部にあって貝殻や動物の骨などのいわゆるゴミだけでなく、人が埋葬されることもありました。

そのことの解釈として映画では、「人間も動物も、食べ物になるものであっても、同じ生命だという考え方があった」と示されるのですが、それはつまり、縄文の考え方は人間が自然の一部だというのを超えて、私は自然であるというものではないでしょうか。

言い換えると、もはや私は主体ではなく、自然が主体で私はその一部に過ぎないという捉え方です。そう捉えると私=人間も犬もクマも貝も役割が違うだけで同じだと考えることができます。

わけがわからないかもしれませんが、人間は「私」を主体として世界を見るのが当たり前です。でも、その前提自体を疑ってもいいのではないかと思うのです。そのように思うのは、私という主体に私自身が疲れてしまったからなのかもしれません。自分は何者なのか、自分は社会に対して何ができるのか、自分は世界とどのように関係していけばいいのかと、自分を主体として孤独に世界と対峙するよう求められることが多すぎると感じてしまうのです。

人間がこのように自己を規定するようになったのは、農耕が始まって以降、自然を人間と別物、コントロールできるものとすることで、そこに断絶が生まれてしまったからのような気がします。確かにそれによって世の中はどんどん便利になり、生活は豊かになりました。しかし、その断絶が息苦しさを生んでもいるのではないでしょうか。

日本でいえば縄文は農耕が始まる前の時代であり、だから今当たり前とされていることとは異なる自然とのかかわり方のヒントが縄文から得られるのではないかと思うのです。そして、その中から異なる自分のあり方のヒントも得られるかもしれないと期待するのです。

■自然との「いかしあうつながり」の仮説
縄文展の中で、私がもう一つ感動した物がありました(本当は一つどころかものすごくたくさんあったんですが)。それは「巻き貝型土製品」です。非常に精巧につくられた巻き貝(の貝殻)の焼き物で、そのリアルさと形の美しさに撃ち抜かれました。

でも私はなぜこんなものに感動しているのかと思う自分もいました。ただ貝をかたどっただけの土製品なのに。今回の縄文展には来ていませんが、北海道の森町でみたイカ形土製品にもいたく感動しました。

この感動の理由は自分でもまだわかっていません。実用的でもないし、神聖なものでも(おそらく)ない、むしろ日常的な食べ物をかたどった焼き物をなぜわざわざつくるのか。その理由を考えていくと、もしかしたら自然との「いかしあうつながり」のあり方のヒントが見えてくるのかもしれません。だから私は意味もわからず感動してしまったのではないかと思うのです。

縄文というのは謎に包まれた時代です。しかし、1万数千年前から数千年前まで日本列島に彼らはいて、私たちの祖先であることは間違いありません。彼らが1万年もの間暮らしていられたということは、彼らの暮らしの中にこの日本列島で暮らしていくための知恵がたくさん詰まっているのではないか、そんなことも思うのです。
 
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