古代社会
342320 聖徳太子は架空の人物であり、その業績は蘇我氏の業績を摩り替えたものである
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 19/01/08 AM09 【印刷用へ
聖徳太子は長らく律令制 の基礎を築き、仏教を伝来させた人物として描かれてきた
しかし、聖徳太子の伝説としてある、厩で生まれたのはキリストの生誕説に似て、生まれてすぐに喋ったという話は釈迦の逸話に似ており、成人してからのエピソードも信じがたいものがあるので、『日本書紀』における聖徳太子の記述には大いなる疑問がある。
 聖徳太子が架空の人物であるという裏づけとして、 例えば『日本書紀』には厩戸王を「皇太子」の肩書で天皇に代わって政治を行ったと書かれているが、推古天皇の時代には「皇太子」という地位はなかったという。
また十七条憲法に使われている用語も、使われている用語や時代背景から推測して、『日本書紀』が書かれた時代に創造された可能性が高い。ほかにも聖徳太子が執筆したとされる経典の注釈書『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の一つである『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』が中国の敦煌文書に酷似しており、偽物説が有力視されている。
こうして見ていくと、聖徳太子の実在を示す確かな史料は存在しないことになるのだ。

また「隋書」によれば、隋にはわが国から2度使者を派遣し、隋の使者が倭国に来た記録が残されている。1回目の記録は、「隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は弥(けみ)と号している。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」

2回目の記録は、 「隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
 『太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
 「煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…十余国を過ぎて海岸に到着する。…倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで…」と隋の使者は倭国王に面談したことは確実である。

 岡田英弘氏『日本史の誕生』によれば 「(以上の隋書の記録の部分は)『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。いうまでもなく推古天皇は女王だ。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、アマ・タラシヒコ・オホキミという人で、名前からみて男王であることには間違いがなく、しかも裴世清はこの男王自身に直接会って話をしている。摂政である聖徳太子を王と取り違えたのだという説は成り立たない。なぜなら太子は王と王妃のほかにいたと、『隋書』にちゃんとかかれているからだ。そういうわけで、「日出づる処の天子」の国書を送ったのは聖徳太子ではなく、『日本書紀』には名前がのっていない、誰か別の倭王だったことが分かる。」

 では、ここで倭国の王位にいたのは誰なのか?最近では蘇我氏の業績を見直す気運が高まっている。
 律令制度の前身に屯倉制があり、それまでは豪族層が差し出す部民によって支えられていた王家の財政を、直轄領を増やすことで独立させようとしたのは蘇我氏であったし、律令制の整備は蘇我氏が行っていたという説である。
その説によれば中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏による改革を潰したという事になってしまい、昔学んだ歴史と正反対になる。
更に、蘇我馬子が修行者を探し、播磨国に僧で還俗した恵便(えべん)という人物を仏法の師とし、仏教に帰依して仏殿をつくったことが、『日本書紀』にも明記されているのだ。
播磨は今の兵庫県の南西部にあたる地域を指すが、この記述は、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味している。ところが学会の見解では、これは聖徳太子の業績とされている。
更にいえば、蘇我氏自身が天智・天武以前の天皇(蘇我王朝)であった可能性が高い。だとすれば『隋書倭国伝』の遣隋使の記述で倭国王が男であったことと矛盾せず、なぜ蘇我氏の邸宅に『天皇記』『国記』が保管されていたのか、なぜ蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだかなどということとも整合する。
 
聖徳太子や中大兄皇子が古代の英雄で蘇我氏は悪者だと教科書には記述されてきたが、記紀の作者の政治的意図は、聖徳太子を英雄に描くほど、太子の子供である山背大兄王を死に追いやった蘇我入鹿の悪が際立つことになり、その悪を征伐した中大兄皇子や中臣鎌足がまた英雄に見えてくるという単純な勧善懲悪の物語のカラクリを作り出すことにあるのだろう。

中小路氏は従来の日本古代史学会の研究手法を厳しく批判している。
まず、歴史について、特定の骨組み(=明治政府の見解)を、権威あり、かつ自明で不動のものとして据え、これを思考の前提とする。その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する(例えば隋書の記述)。
そうやって、前提に合う範囲内で何らかの答えを出す。この場合史料の処理のしかたが研究者によって異なるから、随所に複数の答えが生じ、日本古代史は謎だらけのありさまとなり、そして、そうなった原因は、史料自体の不備に帰せしめられる。そして、例の不動の前提の“本来の根拠”については、一切これを問わない。」

このようなスタンスは、カルトそのものである。これでは、戦前から続く古代史観が抜本的に変わることはあり得ず、いつまでたっても真実に到達することはできないだろう

参考:「しばやんの日々」
 
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