日本人と縄文体質
339662 日本の歴史における税と贈与
 
北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 18/10/03 AM00 【印刷用へ
あたかも教科書では律令制度をもって初めて税制が導入されたかのような記載であるが、それ以前の日本の風習に「貢納制度」があった。とりわけ「租」や「調」は、唐の税制の輸入とされているが、その内実は、本家のものとはかなり異なっており旧い習俗の「貢納制度」(贈与)の系譜を引く部分が大きい。税である限り、強制力(武力)を背景にしていることは一面の事実ではあるが、共同体性をより強く残した日本においては、人々の納得・合意が不可欠であったためであろう。      

○神への貢物(贈与)と古代の税
唐の税制が国家からの徴税という性格がストレートに出ているのに対し、形こそ似ているものの、日本における律令制の税制である「租」と「調」は神に対する貢物(贈与)が税に転化したものであるという性格が強い。
まず「租」は収穫の約3%と非常に税率が低い。かつ、治められた収穫物は中央には送られず、地方に保管されていたことが特徴である。これは、もともと「租」が、律令制以前に各部族にて、収穫の一部を「初穂」として神の代理人たる部族の長に貢納する慣行を土台にしているからと考えられる。

他方「調」は、絹・布等の各地の特産物を中央政府に納めるというものである。しかし、それらは主要に神事に用いられていた。古代には毎年9月に伊勢神宮に初穂を奉ずる「神嘗祭」。11月に畿内諸社に初穂を奉ずる「相嘗祭(あいなめさい)」。2月に全国の神社で行われる「祈年祭」という3つの重要な祭儀があったが、これらの初穂や幣帛に「調」は用いられていたのである。もちろん「調」は氏族や官人にも分配されていて、全てが神事だけに用いられていたのではないが、朝廷に納められた「調」は、大蔵省の庭に積み上げられた後、そこから「初穂」として神社に献納された後に、各氏族や官人に分配されていたのである。
「初穂」とは、農業や漁業で得られた、その年最初の収穫物をさすが、更にそれ以前には「荷前(のさき)」とも呼ばれていた。この日本の「初穂」に類似する「捧げもの」は、ニュージーランドのマオリ族の「ハオ」「マウリ」等世界の未開民族に幅広く見られる風習である。日本ではその後、農業・漁業に限らず、あらゆる生業における生産物の一部を初穂として神仏に捧げるようになり、更には商業や貿易など必ずしも生産活動から得られた収入でない場合にも、その一部が神仏に捧げられて初穂と呼ばれた。現在でも神社で使われるお守り等の値段を指す「初穂料」という言葉はこの初穂の習俗に由来している。

また貨幣新鋳の際にも、その一部が初穂として奉納されている。870年に「貞観永宝」が新鋳された際も宗像神社に20文などの初穂が奉納されているが、このときに鋳造された総額は1110貫文(1貫文=1000文)であるのに対し、非常に小さい額である。
日本では神に対する贈与は、必ずしも多額である必要がないというのが特徴で、実はこの額の少なさこそが日本における初穂の特長なのである。神に対する捧げもの=贈与という点では西洋の教会に対する寄付と類似するが、寄付が金額の高さも評価の対象になっているのと対照的である。初穂とは、日本の贈与文化における「寸志」の土台を反映したものでもあったのだ。

平安時代中期の「税制改革」の結果、成年男子に対する人頭税であった「調」は、10世紀後半までに「租」「庸」「雑徭」などの他の税目とともに官物と呼ばれる地税に統合され、人への課税から土地への課税へと大きな変化を遂げ、神への捧げものとしての性格が喪われ、国家の徴税としての姿が全面に現れることとなる。

○相互扶助の「トブラヒ(訪)」の風習と税
もう一つ古来からの風習が税に転化した事例が「トブラヒ」である。
トブラヒとは古代から中世にかけて親族や同僚など比較的親しい者の間で行われていた相互扶助行為で、仲間の誰かが多額の出費を必要とした時に、仲間を支援する目的、あるいは見舞いとして贈り物をすることを「トブラヒ(訪)」あるいは「助成(じょじょう)」等と言った。例えば、仲間の家が火事にあった、祭礼の頭役に指名された、貴人の来客をもてなす必要がある等の多大な出費が予想されるときにそれが行われた。
この「人への贈与」の慣行を税に転化したものが、天皇即位、伊勢遷宮等の主要行事に対して貴族や寺社のトブラヒに依って賄われる財政構造である。
また庶民に置いてもトブラヒと並んで「タテマツリモノ」という風習があった。これは一種の客人歓待儀礼であり、中央から国司や地頭、代官、荘官などが下ってきたときに、現地の人々が宴会を開いて彼等をもてなす儀礼である。元々は現地の人々も遠来の客と共に会食する共同飲食の形を取っていたと思われるが、やがてこれが負担化・銭納化し中世荘園における年貢と並ぶ主要な負担であった「公事(くじ)」の一部となる。その際には現地の人々も参加する共同体の正式行事だったことが、その徴収を正当化する理屈となったのだ。

参考:「贈与の歴史学」桜井英治
 
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