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より以下転載。
前前回の記事
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『日本を代理支配する田布施システム。朝鮮出自在日勢力はどのようにして日本の支配層になったか。その1 伊藤博文から岸・安倍・笹川、統一教会、日本財団。』
の冒頭の抜粋転載の記事ふたつを、ここで要約して、それを今回のテーマの起こし、とさせていただく。
オルタナティブレポート
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(上記サイトの記事より抜粋)
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日本の戦国時代、最も「忍の者」=諜報(スパイ)組織を発達させたのが毛利一族であり、長州藩はそのスパイ組織を引き継ぎ生かし、江戸幕府を打倒する。
明治天皇は、当初、日本が英国ロスチャイルドと組み、後に満州事変に発展する中国・アジアへの侵略政策を採用する事に強く反対したため、長州藩勢力により殺害され、長州の諜報組織のメンバーが明治天皇に「入れ替わる」。
大正、昭和の天皇、現在の天皇は、この長州藩の諜報組織のメンバーの末裔であり、明治天皇の子孫では全く無い。
以後「ニセ」の天皇の周辺を長州勢力の諜報組織のメンバーが固め、日本の政治は動かされて行く。
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(上記サイトの記事より抜粋)
■日本征服計画A 尊皇攘夷の象徴孝明天皇暗殺
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日本人の魂を抜かれた博文は岩倉具視と共謀して、尊皇攘夷の象徴孝明天皇と息子の睦仁親王を相次いで暗殺する。
慶応2年(1866)12月某日夜半過ぎ、孝明天皇(写真下)はずっと病んでいた天然痘が快方に向かったため、愛妾だった岩倉具視妹の堀川紀子邸(下京区岩滝町)に夜這いに行く。天皇が用をたそうと厠に入った際、厠の下に隠れていた何者かが彼を槍で刺し殺す。実行犯は伊藤博文である。
彼を刺客として送ったのはグラバー。彼は薩長勢力に軍艦・最新式武器スペンサー銃やゲベール銃を供給させて倒幕勢力を育てる一方、慶応2年12月25日、攘夷佐幕で凝り固まって手を焼いていた孝明天皇を暗殺する為、大阪湾停泊の英国駆逐艦から、若き伊藤博文を放った。
著名な歴史作家の南原幹雄の曽祖父は御殿医だったが、当日深夜突然呼び出され、致命傷を負って息絶え絶えの孝明天皇を診察。その事実を詳細に記録した日記が残されている。
孝明天皇の息子の睦仁親王も翌年1月の天皇即位から半年後に暗殺される。遺体は布でぐるぐる巻きに巻かれ、実家の中山家に送り返された。
その後数か月間天皇位は空位が続いたが、鳥羽伏見の戦いで官軍が勝利した直後、奇兵隊隊士、当時16歳の大室寅之祐が睦仁天皇に成り代わり、密かに明治天皇となった。
これが偽らざる真実の明治維新史である。ちなみに、大室寅之祐の出身地、山口県熊毛郡田布施町の古老達は、今でも明治天皇のことを「奇兵隊天皇」と呼ぶ。
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明治天皇になるはずだった孝明天皇と、その長子の睦仁親王は、長州藩伊藤博文一味によって暗殺され、一味の大室寅之祐が睦仁天皇に成り代わり、密かに明治天皇となった。明治維新は天皇を殺害して、天皇になる、天武以来の、字義どおりの倭国「大乱」だった。
この歴史の事実を掘り起こしわれわれに明らかにしたのは、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇−明治維新の謎』、益田勝実氏『天皇史の一面』に、これを元にした鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』((2007年7月21日成甲書房)であり、冒頭のふたつの記事もそれらを出典としている。 |
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