近代市場の拡大
330980 大航海時代〜ポルトガルのアフリカ・アジア進出
 
匿名希望 17/11/07 AM01 【印刷用へ
大航海時代の幕開け。先陣を切ったのは、ポルトガル。ヨーロッパ最西端に位置する立地特性を活用し、海を渡り始めた。教科書的には、貿易等々かいてありますが、実際は植民地拡大のための大侵略。
特に、インドについては、香辛料を求めて、奴隷貿易を行った。
リンクより引用します。

●ポルトガル人来航の頃のインドの状況
ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマの指揮する船団が、カリカットに来航したのは1498年。インドにムガル帝国が成立するより以前のことであり、当時インドには統一的政権は存在せず、とくに南インドにはヴィジャヤナガル王国(ヒンドゥー教国)やバフマン王国(イスラーム教国)などが対立している状態であった。またポルトガル進出以前のカリカットは、アラビアやエジプトからのムスリム商人が来航し、アラビア海はマムルーク朝の制海権のもとにおかれていた。また、15世紀の前半には明の鄭和艦隊がカリカットに来て、さらにアラビア海に進出していた。中国商人の活動は明が海禁政策をとったため衰えるが、アラビア海からベンガル湾を経て東南アジアに至る海域で、ヨーロッパ商人が進出するより遙か以前から、ムスリム商人・中国商人による活発な交易が行われていたことはしっかり認識しておく必要がある。

●インドでの覇権
ポルトガルはインドとの香辛料貿易からイスラーム勢力を排除して、その利益を独占しようとして海軍を派遣し、活動拠点を建設する必要を感じた。その任務のために常駐統括者として総督(インド副王)が1505年におかれた。初代はアルメイダは1509年にはディウ沖の海戦でマムルーク朝エジプトの海軍を破って紅海・アラビア海の制海権を握った。第2代がアルブケルケは、1510年にゴアを強制占領して拠点とした。ゴアはアジアにおける最初のヨーロッパ諸国による植民地となり、実に1961年にインドに返還されるまでポルトガル領であった。
〜中略〜

●香辛料貿易
ポルトガル人の香辛料貿易はインドの土侯たちに火器などを代償としてカリカットなどマラバール産の胡椒を手に入れ、さらにマラッカから運ばれた丁子などの香辛料をゴアに集積し、インド航路でモザンビークなどを経由して喜望峰を回り、リスボンに持ち帰った。それは、従来のアラビア商人やエジプト商人から買うよりはきわめて安価に大量に得られる取引であった。商品はリスボンに運ばれてからアントウェルペンやロンドンに運ばれたので、リスボンにはドイツのフッガー家などのヨーロッパ各地から商人が集まり、彼らはポルトガルの国家事業である船団に出資し、利益を得た。今もリスボン港の付近から胡椒や陶磁器を満載したまま沈んだ沈没船が引き上げられることがある。

●中国・日本への進出
その勢力は明王朝の統治する中国に及び、1517年には広州で通商を開始、1557年ごろまでには広州に近いマカオに居住するようになった。一方、1543年ポルトガル商人の乗った中国人のジャンク船が種子島に漂着してから日本との接触も始まり、1550年には平戸に商館を設置し、九州の諸大名との通商を行うようになった。これは日本では南蛮貿易といわれ、ポルトガル商人は中国産の生糸を独占して安く買い取り、日本で高く売りつけて利益を上げたほか、宣教師を通じて鉄砲や火薬を大名に売りつけ、大名の中にはキリスト教を受け容れてキリシタン大名となるものも現れた。

●ポルトガルのアフリカ植民地支配
ヨーロッパ人のアフリカ大陸侵出の口火を切ったのがポルトガル人であった。1415年のセウタ攻略にはじまり、エンリケ王子の時、1431年にアゾレス諸島、1445年にアフリカ東端のヴェルデ岬を回航し、翌年には西アフリカの海上のカボベルデ島に到来した。
黒人奴隷貿易 ポルトガルはスペイン王国の進出に先手を打って、1455年にローマ教皇からキリスト教の布教を大義名分として、すでに「発見」され、さらに将来「発見」されるであろう非キリスト教世界における征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した。それによってポルトガルはアフリカ西岸のギニア地方での金と黒人奴隷で大きな利益を上げ、1482年にはその拠点としてジョアン2世が現在のガーナの地にエルミナ要塞を建設した。さらに現在のナイジェリアの海岸のベニン王国に商館を置いた。またダホメ王国とも交易を行った。ギニア湾上に浮かぶサン=トメ島には奴隷貿易の中継基地が作られた。
コンゴからアンゴラへ 1485年からポルトガル人はコンゴ川(ポルトガル人はザイール川と名付けた)を遡りコンゴ王国と接触した。ポルトガルは宣教師を送り込み、コンゴ王国のキリスト教化を図った。コンゴ王国はポルトガルの影響下でキリスト教化が進んだが、植民地支配のもくろみは阻まれ、その矛先は南のアンゴラに向かっていった。
〜中略〜

15世紀から始まったポルトガルの黒人奴隷貿易は19世紀半ばまで続いた。当初、その支配は奴隷貿易とアジア貿易の帆船の寄港地としての港市に限定されていたが、その維持は困難でケープ植民地は放棄された。またモンバサは1698年にオマーンのイスラム政権の軍に攻撃されて陥落した。またギニア湾岸のベニン王国はオランダ、次いでイギリスが進出したため放棄した。ダホメ王国にはフランスが進出したためポルトガルは後退した。

ポルトガル植民地の形成
16世紀末から17世紀にかけて、オランダとイギリスがインド洋貿易に進出し、インドではイギリスの、東南アジアではオランダの覇権が出来上がると、ポルトガルはアジア貿易から後退せざるを得なくなった。それに代わって、アフリカ内陸の植民地化に努めるようになり、西海岸のアンゴラ、ギニアビサウ、東海岸にモザンビークがポルトガル領となり、ブラジルとともにポルトガルの植民地帝国としての富の源泉となった。

19世紀にはブラジルは独立したが、アフリカ植民地はさらに維持され、1884〜85年のアフリカ分割に関するベルリン会議の結果、正式にポルトガル領となった。第二次世界大戦後のアフリカ諸国の独立の動きの中でも最も遅れて、ポルトガル領アフリカ植民地の独立が達成されるのは1974年であった。
 
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