>「まつりは集団を超えた闘争・役割共認の場」とするのは拡大解釈のように思われます。祭りの運営から生存上の必需品に至るまで、他部族との役割分担は考えられず、祭りの運営も認識創出も当然自前で行い、部族内で継承していった(これが長老の最大の役割であった)と思われます。
集団規模が日常的にお互いに顔を見渡すことのできる小集団であれば、「まつり」は集団統合(闘争+解脱)共認の場であったと思います。しかし、採取時代中期の集団構造は多段階編成(概ね胞族・氏族・部族)となっており、「まつり」も人工的な祭祀空間へと変化しています(32641 北村さん)。
集団規模が大きくなると直接的な体感共認による強固な人間関係から緩やかな連合・同盟関係となり、集団構造も垂直統合と平面的なネットワーク構造が同居しているような状態が想定されます。単位集団は他の集団とも単独で情報交換を行い友好関係を模索するなど開放的な部分もあったのではないでしょうか。
前回紹介したオーストラリアの部族の事例は、上記の集団の多段階編成の図式に当てはめると部族内の役割分担の域内に留まり、部族ではなく氏族と言うのが正確であり、誤解を招いていたようです。
従って、岡本さんが仰るように祭りの運営や生存上の必需品は部族の存続上の根幹部分であり部族内の成員による自営・自足であったと思います。しかし、認識創出については他部族の影響を受ける場合が十分考えられると思います。(但し、生存圧力が高いこの時代では、日常的かつ生活必需品以外のモノに限定されますが)
青森の三内丸山を例に挙げれば、新潟産のヒスイ、北海道産の黒曜石、岩手産の琥珀、秋田産のアスファルトなどの装飾品が該当します。場合によっては土偶や祭祀用の土器なども含まれるのかも知れません。
人工的な祭祀空間の活性化が多段階編成部族の課題であるならば、象徴的かつ非日常的なモノに収束していくのも当然かも知れません。採取時代中期以降の「まつり」は、これらのモノが流通する場であり、他集団にも役に立つ霊的な認識が伝播する場であったのではないでしょうか。但し、始原時代の万物を対象とした精霊信仰と比べると限定された領域での創造活動に留まっていると思います。
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