我々は可能性を看取したときに活性化します。
市場が閉塞に陥り、一方で携帯やインターネットはシェアを延ばし続けています。
つながり欠乏は増大し、携帯が実関係でのつながりの延長であったのに対し、ネットはつながり・集いの場そのものを築いた点は注目されます(その後、携帯も追随している)。
さらにネットは誰でも発信の場を作ることが可能になり、そこでは出会い系に代表されるような、ただのつながり欠乏を超え、認識(およびその評価)を求めているように感じられます。
不登校の悩みをもつ者はそもそも学校に行く必要があるのか?と根本的な問題を提起し、不倫を語るサイトは一対婚の限界を明らかにしています。既存のフレームで改革もどきを繰り返す統合階級に見切りをつけたのではないでしょうか。ただし、まだ誰も皆の評価を得られるだけの答らしきものを見つけてはいません。
また、自分の発信欠乏を中心とした既存の個人サイトより、「2ちゃんねる」のように皆が集う場が活性化しています。(もっとも「2ちゃんねる」は反権力、反企業と言った現実否定のパラダイムを超えられそうにありません。)
自分発の不全や欠乏が中心の個人サイトでは言いたい中身にも限界があり、また発信よりも圧倒的に多い答え探しの読者たちとともに、皆が集い、発信・評価できるサイトへシフトするのは容易に想像できます。
(「2ちゃんねる」でさえ、趣味や消費生活の情報交換=口コミ評価の機能はそれなりに形成されているようです。)
「るいネット」のような認識形成を自覚している場は希少ですが、私たちは顔の見える関係から一歩進み、認識が伝わる関係に可能性=活力を見出し始めているようです。 |
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