>国家や市場に要求しても事態を悪化させるだけであり、その様な欺瞞的な社会運動は早晩旧体制と運命を共にすることになるだろう。 <(Msg32085:四方さん)
この発言、たいへん印象に残りました。
親しい間柄では、仕事であれ趣味であれ、本源的な共認圧力や評価圧力は常に働いています。集団のように肉体的に体感できる空間であれば、期待にどれだけ応えたか(=応望)という成果に対する評価も無意識に誰もが感じて行動できます。
しかし、社会全体を問題にするとき、マスコミの影響も大きいと思うのですが、人々の意識は要求主義に象徴されるように期待一辺倒になってしまいます。その‘症状’がもっと進むと、傍観者を決め込むところまで行き着きます。
それもそのはずで、私権時代の人々が『身分』や『お金』で何を手に入れようとしてきたのかは、究極的には「自らは何もしないこと」だった訳で、これは応望抜きの期待だけで生きていける立場に他なりません。国家や市場は、もともと『場』の引力が共認原理から大幅にずれているので、こちらの方が遥かに解かり難い存在とも言えます。
国家や市場に何の展望もないことを一旦棚上げしたとしても、期待と応望の調和した社会統合様式でなかったが故に、たった数千年の超短命で終わるのも自明のことです。富田さんがMsg31855で述べておられる『私たちは初めて社会全体の期待を対象化する』という投稿の主旨も、多くの人々の心の中で出口を探してもがいている普遍的な潜在期待を表舞台に引き出すことが、実は最初の応望行為であることが解かります。
“ゼロから着実に新しい『場』を構築してゆく運動”は、確かに誰も経験したことのない営為ですが、これまでまともな『場』がなかっただけだからこれから皆で創っていこうと考えれば、それで充分のような気がしてきました。
しかも『認識形成の場』は、期待応望関係を基軸にした同類圧力が自ずと働くことと、認識進化に期待し応えることがそのまま『場』を拡大させ様々なシステムも進化させること、このふたつが完全にリンクしているというシンプルな構造をもっているのも大きな魅力のひとつです。
社会統合の絶対的要請から生まれた『国家』とその派生物である『市場』も、この新しい可能性から振り返ると、随分とやっかいで複雑なしくみを創ったものだと半ばあきれてしまいます。
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