この間の議論で、みんなが(程度の差はあれ)社会統合(=認識形成)の課題を担う。こんな充足感のある時代が目前に迫っているような予感を感ずる。
既存の国家機構はすでに棺桶に片足を突っ込んでおり、そのことは、人々の要請にこたえきれていない現状がそのすべてを物語っている。
これまで統合階級は、自分たちは「社会統合のプロ」であると信じてきたが、その根拠は官僚や弁護士等、単に国家によって与えられた「身分=資格」にある。いわば、すでに何も答えが出せていない統合組織である国家から与えられた、「お墨付き」に基づいて彼らの身分が形成されており、その化けの皮は徐々にかつ着実に剥がれつつあるのが現状であると言える(みんなが何を求めているのかさえ対象化しようとしない既存の国家機構の「お墨付き」に、一体、何の価値があるのか。たとえば、少しは私権適応体として圧力が高い企業社会では東大卒や京大卒という国家の「お墨付き」が企業の戦力度に結びつかないという事実は既に明白になっている)。
そもそも、本来は社会統合という最大の充足を伴う課題を、棺桶片足の国家機構が与えたお墨付き連中に任せておいていいはずはない。
貧困が消滅し、彼らの本質的な社会的役割がなくなってしまった現在では、彼らの行動はその身分の保身に収束し、己の私腹を肥やすこととや支配充足を得ること程度しかない(外務省然り)。さらに彼らのそんな行動に対する監視圧力が既に形成され、決して彼らには任せておけないというのが、既に社会共認となっている。
あとは、「任せておれない」というちょびっと不全発の危機意識でもいいし、「社会統合=認識形成は面白い」という充足感情(ちょびっと支配充足派)でもいい(→動機は何であれ参加すれば変わる可能性はある)。
私たちは、貧困を消滅させた結果、やっと、みんなが認識形成に参加する時間の余裕もできた時代に生きている。だから、本当に「任せておけない」と思う人や「面白そう」と思うひとが集まって、この認識形成サイトの参加者となれば、このサイトの参加を通してみんなの意識が変わり、知らないうちに棺桶片足の国家にとって変わっていることだろう。
認識闘争とは認識形成への参加の継続による認識転換に他ならないように思う。 |
|