日本人と縄文体質
318070 子どもは江戸の宝。江戸時代の共同体教育
 
松本翔 ( 27 埼玉 構造設計 ) 16/08/06 AM00 【印刷用へ
江戸時代の教育が進んでいたことは、最近でも多くの投稿から見て取れるが、そのベースにあったのは、共同体的なその時代の風土であったようだ。
もうひとつは「見習い」「見取り」をさせる教えない教育にも成功していたポイントがありそうだが、子供達の活力は実際どうだったのだろう、という点が気になっている。

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アメリカの動物学者で東大のお雇い教授として日本に約3年弱滞在し、大森貝塚を発掘したエドワード・S・モースはその著「日本その日その日」のなかで以下記述している。

「日本が子供の天国であることを、繰り返さざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい。
私は、今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。日本人の子供程、行儀がよくて親切な子供はいない。日本人の母親程、辛抱強く、愛情に富み、子供に尽くす母親はいない。」

日本の研究家であるアメリカ人、スーザン・B・ハンレーはその著「江戸時代の遺産」に「1848〜60年の江戸での就学率は、70〜86%と考えられている。これとは対照的に、1837年の時点でのイギリスの大きな工業都市では、学校へ言っていたのは4,5人に一人に過ぎなかった。明らかに日本人はたとえ農民であっても自分たちの子供を学校へやることができるだけの収入レベルに達していたのである。」

日本の20世紀初頭の原風景として、村落の一番大きな建物でその村落の中心部に位置していたのは学校であった。あたかも西欧の村、町の中心部に教会があるのと同じように。

では何故、学校が村落の中心部に位置していたか、なぜ一番大きな建物であったか。それは江戸時代からの子どもを国の宝とし、子どもの教育を大事にしてきた江戸の遺産と言える。

家庭でも町内でも子供は次の江戸を背負うものとして大事にされ、子は家の宝、村や町の宝とする子宝思想が広がっていた。子供を大切に育てること、子供とともに日常生活を楽しむこと、そして教育に努めることが父母のなによりの役割とされてきた。

と同時に、子育ては親だけが単独で子供に向き合うものではなく、その地域共同体全体の大きな仕事であった。子供の誕生にあたっては、生みの親以外にも、「取り上げ親」とか「乳付け親」「名付け親」「拾い親」などのさまざまな「仮親」が、生まれた子供との間に擬制的な親子の関係を取り結んだ。この仮親たちは、その子の成長過程に「親」として関わってくる。それは子育ての為のおとなのネットワークの観がある。子供の誕生とその後の成長の節目ごとの祝いには、近所・親戚の人たちが集まって共食(酒食)した。それも子供の成長を支えるおとなのネットワーク集団にほかならない。

農村においては、七歳を過ぎると子供達は「子供組」という一定の年齢で区切られた集団に入り、多くの時間をそこで過ごした。遊びや村の行事などに参加しながら、年少者は年長者からさまざまなことを習い学んで、村の子供らしく育っていった。
おおむね15歳を過ぎると一人前の扱いをうけ、例外無く「若者組」集団に属し、結婚までの多くをそこで過ごした。若者組は寝宿での共同生活を基本にし、その生活を通して一人前の村人に育てられ、実際に育っていった。若者組に入れば、婚姻も含め、たいていのことに親より若者組の意向の方が優位であった。
要するに親や家より、子供や青年の地域の自治集団の方が、子供の人間形成にずっと大きな意味を持っていたのである。江戸時代においては、子供のしつけや教育は、親よりも社会全体の義務、責任という側面が強かった。

江戸の町人はほとんどが商人であったため、親は多忙を極め絶対的に子供に教える時間がない。この為親たちは共同でお金を出し合い、寺子屋の師匠に子供たちを預けた。勉学環境にも見識を持ち、寺子屋の周囲には青(今日の緑、つまり樹木)に包まれた中で勉強すると、目も疲れず、頭も良くなるとの考えのもと、周囲環境を整えていた。

寺子屋はどんな身分の子弟でも入れるオープンシステムで「将来性のある者にはそのものの長所を生かし、出来損ないはその短所を矯正し、海のものとも山のものとも分からない人間からは、その者の良い芽を引き出してやるべし」を信条とした。

また師匠は40歳以上が原則で、男性ばかりでなく女性もいた。人の子を導くのに老人に偏っても若いリーダーに偏ってもいけないと年齢のバランスも考えられていたように思われる。

学ぶ内容はまず必要最小限の「読み、書き、算盤」を学んだあとは、「見る、聞く、話す」に重点をおいた。寺子屋では、年齢的に段階を追って課題を与えるなど教育内容もよく工夫されていたという。

「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理り十五で末決まる」十二歳までには両親の代筆ができることが課題だった。たどたどしくても書くことを大切にした。

子供たちを仕込むのは教育ではなく、養い育む養育か、鍛え育む鍛育でなければならなかった。
親が教え、親がそだてるということになると必ず上下関係ができる。五歳までは親が面倒をみなければならないが、それ以上は自立心を養う為に一方通行で教えたり育てたりはしなかった。稚児のほうから自発的に師や親兄弟姉妹、世間を見習わせ、見取らせるようにしておいた。「見習い生」とか「見取り図」という言葉は江戸の躾言葉の名残。

江戸の教育は世界にも例のないほど進んでいたようで、オープンスクール方式であったし、ブレーンストミーングやロールプレイング(各自、役割を仮定して実態に近い劇を行ないトレーニングする)も二百年前の江戸の寺子屋で既に行われていたという。
 
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