経済のグローバル化ということが昨今よくいわれます。しかし、よく考えてみれば、そもそもグローバル化とは、国家を越えて貨幣やモノのが移動することであり、これを別の言い方をすれば、国家があるからこそ、グローバリズムが可能であるといえるのではないかと思います。
例えば、金融市場(外国為替市場、債券市場、株式市場)は急速に統合されつつあり、その意味では、明らかに資本の移動はグローバルなものとなっています。しかし、その移動をもたらす誘因は何かといえば、それぞれの場所における経済事情の違いであり、この場合、それぞれの場所とは基本的に国家です。最も高度に統合された外国為替市場においても、資金移動とは結局、各国通貨の「交換」にほかならず、その背後の国家の存在が前提となっています。
つまり、金融グローバリズムによって生み出される「交換利益」(これも本質的には幻想共認によってつくりだされた価格格差によるもの。※参考30709)は、実際は、まさに異質な国家が存在するという国家システムのゆえに可能となっていると言えるはずです。
「市場の論理」と「国家の論理」とは、こんにち、しばしば対立的な様相を見せますが、もっと根本的なところで、「市場」と「国家」はもともと共犯関係にある、もしくは「市場」は「国家」に寄生する存在である、ということが言えるのではないかと思います。
>私権闘争の抜け道が、交換取引の場=市場である(30709)
幻想価値の共認に基づく交換取引の場=「市場」が、「国家」による武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの「抜け道」として登場した後、今日に至るまでずっと、「市場」と「国家」の両者は、相互不可分の共犯関係にあるとも言えるのではないでしょうか。
>新しいまつり場は、国家と市場を超えられるか?(29731)
『超国家・超市場論1』における最初の問いの意味が、今ようやく分かってきた気がしています。
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