主として、科学技術面に論を絞って述べておられますが、くわえて
「戦争は文化の母」という言葉があり、「戦争があるから科学技術が発展してきたのだ」というそれこそ倒錯した思考もあるようです。
生産に向けられるべき「科学技術」が殺戮の兵器の開発に向けられるとすれば、その分、生産のための研究開発は遅れ、おろそかになる。
そして技術面のみならず、認識面においても「科学」は「現代社会を正当化する主力として宗教に置きかわることができた」「科学は社会を超越しているという主張にもかかわらず、科学は以前のキリスト教会と同じように、このうえなく社会的な制度であり、それぞれの時代の社会の主要な価値と考え方を反映し、それらを強化します。」(リチャード・レウォンティン 「遺伝子という神話」1理性にもとづく懐疑)
上記引用は、ドーキンスの「利己的な遺伝子」批判として行われたラジオ放送を活字化した本からですが、イデオロギーとしての現代科学を厳しく批判し、「したがって、本書は政治的な目的も持ちます。それは、科学を専門家にまかせたままにしないように、また、科学によって煙にまかれないように、そして、すべての者が共有しうる洗練された科学的理解を望むように、読者をうながすことです。」と述べ、更に17、18世紀の「市民革命」のイデオロギー批判も行われています。
「科学技術」の面と合わせ、特に「世界の市場化」が「実現」された、19世紀以降の「近代・現代科学」の、社会の認識に関し演じた働きをより具体的に見てゆきたいと考えます。「社会の活動としての科学」のあり方を求めるために。 |
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